俳句の精神
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)插入《そうにゅう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)多少|牽強付会《けんきょうふかい》の説と

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和十年十月、俳句作法講座)
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     一 俳句の成立と必然性

 五七五の定型と、季題および切れ字の插入《そうにゅう》という制約によって規定された従来普通の意味での俳句あるいは発句のいわゆる歴史的の起原沿革については、たぶんそういう方面に詳しい専門家が別項で述べ尽くされることと思うから、ここで自分などが素人《しろうと》くさい蛇足《だそく》を添える必要はないであろう。しかし自分が以下に試みに随筆的に述べてみたいと思う自己流の俳句観のはしがきのような意味で、やはり自己流の俳句源流説を略記して一つには初心読者の参考に供し、また一つには先輩諸家の批評を仰ぎたいと思うのである。
 俳句の十七字詩形を歴史的にさかのぼって行くと「俳諧《はいかい》の発句」を通して「連歌の発句」に達し、そこで明白な一つの泉の源頭に行き着く。これは周知のことである。
 しかし、川の流れをさかのぼって深い谷間の岩の割れ目に源泉を発見した場合にいわゆる源泉の探究はそれで終了したとしても、われわれはその泉の水が決して突然そこで無から創造されたものではなくて、さらに深く地下の闇《やみ》の中にその出所を追究することができるということを知っている。それと同じようにわれわれはまた俳句というものの中に流れている俳句的精神といったようなものの源泉を、その詩型の底にもぐり込んで追究して行くと、その水脈のようなものは意外に広く遠い所に根を引いているのに気がつくであろう。たとえば万葉や古事記の歌でも源氏や枕草子《まくらのそうし》のような読み物でも、もしそのつもりで捜せばそれらの中にある俳句的要素とでも名づけられるようなものを拾い出すことは決してそれほど困難ではあるまいと思われる。
 ここで自分がかりに俳句的要素とかいう名前で呼んでいるものは何であるかというと、それは古来の日本人が自然に対する特殊な見方と態度をさして言うのである。
 日本人の対自然観が外国人なかんずく西洋人などのそれと比較していかなる特徴をもっているかということについては
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