を感ずる事も少なくなかった。かまわないで打っちゃっておいてもらいたい事を決してそうはしてくれなかった。つまり二つの種類のちがったイーゴイストはこの点で到底|相容《あいい》れる事ができなかったのであろう。
 妙な事を思い出す。父の最後の病床にその枕《まくら》もと近く氷柱を置いて扇風器がかけてあった。寒暖計は九十余度を越して忘れ難い暑い日であった。丑女《うしじょ》はその氷柱をのせたトタン張りの箱の中にとけてたまった水を小皿《こざら》でしゃくっては飲んでいた。そんなものを飲んではいけないと言って制したが、聞かないで何杯となくしゃくっては飲んでいた。彼女の目の周囲には紫色の輪ができていた事をはっきり思い出す事ができる。
 昨年母の遺骨を守って帰省した時に、丑女はわざわざ十里の道を会いに来てくれた。その時彼女の髪の毛に著しく白いものが見えて来たのに気がついた。自分の年老いた事を半分自慢らしく半分心細そうに話した。たぶんことしで五十二三歳であったろうと思う。
 自分の若かった郷里の思い出の中にまざまざと織り込まれている親しい人たちの現実の存在がだんだんに消えてなくなって行くのはやはりさびしい。たとえ生きていてももう再び会う事があるかどうかもわからず、通り一ぺんの年賀や暑中見舞い以外に交通もない人は、結局は思い出の国の人々であるにもかかわらず、その死のしらせはやはり桐《きり》の一葉のさびしさをもつものである。
 雑記帳の終わりのページに書き止めてある心覚えの過去帳をあけて見るとごく身近いものだけでも、故人となったものがもう十余人になる。そのうちで半分は自分より年下の者である。これらの人々の追憶をいつかは書いておきたい気がする、しかしそれを一々書けば限りはなく、それを書くという事はつまり自分の生涯《しょうがい》の自叙伝を書く事になる。これは容易には思い立てない仕事である。そうしておそらくそれを書き終わるより前に自分自身がまただれかの過去帳中の人になるであろう。
 身近い人であればあるほどその追憶の荷はあまりに重くて取り上げようとする筆の運びを鈍らせる。ただ思い出の国の国境に近く住むような人たちの事だけが比較的やすらかな記録の資料となりうるようである。
 自分の過去帳に載せらるべくしてまだ載せられてないものには三匹の飼い猫《ねこ》がある。不思議な事には追懐の国におけるこれらの家畜は人間と少しも変わらないものになってしまっている。口もきけば物もいう。こちらの心もそのままによく通ずる。そうして死んだ人間の追憶には美しさの中にも何かしら多少の苦《にが》みを伴なわない事はまれであるのに、これらの家畜の思い出にはいささかも苦々《にがにが》しさのあと味がない。それはやはり彼らが生きている間に物を言わなかったためであろう。

     猫の死

「玉《たま》」は黄色に褐色《かっしょく》の虎斑《とらふ》をもった雄猫であった。粗野にして滑稽《こっけい》なる相貌《そうぼう》をもち、遅鈍にして大食であり、あらゆるデリカシーというものを完全に欠如した性格であった。従って家内じゅうのだれにも格別に愛せられなかった。小さい時分は一家じゅうの寵児《ちょうじ》である「三毛《みけ》」の遊戯の相手としての「道化師《クラウン》」として存在の意義を認められていたのが、三毛も玉も年を取って、もうそう活発な遊戯を演ずる事がなくなってからは、彼は全く用のない冗員として取り扱われていた。もちろんそれに不平らしい顔もなく、空々寂々として天命を楽しんでいるかのようにも思われた。
 ただ一つ困った事にはこの僧侶《そうりょ》のような玉にもやはり春の目さめる日はあった。さかり[#「さかり」に傍点]がつくと彼は所かまわず尿水を飛ばして襖《ふすま》や器具をよごした。あまりやっかいをかけるから家族のほうから玉を追放したいという動議が出た。そうしないでこの悪癖を直す方法はないかと思って獣医に相談すると、それは去勢さえすればよいとの事であった。いくら猫《ねこ》でもそれは残酷な事で不愉快であったが、追放の衆議の圧迫に負けてしまってとうとう入院させて手術を受けさせた。
 手術後目立っておとなしく上品にはなったが、なんとなく影の薄い存在となったようである。それからまもなくある日縁側で倒れて気息の絶え絶えになっているのを発見して水やまたたびを飲ませたら一時は回復した。しかしそれから二三日とたたないある朝、庭の青草の上に長く冷たくなっているのを子供が見つけて来て報告した。その日自分は感冒で発熱して寝ていたが、その死骸《しがい》をわざわざ見る気がしなかったから、ただそのままに裏の桃の木の根方に埋めさせた。目で見なかった代わりに、自分の想像のカンバスの上には、美しい青草の毛氈《もうせん》の上に安らかに長く手足を延ばして寝ている黄金色の猫の姿が、輝くような強い色彩で描かれている。その想像の絵が実際に目で見たであろうよりもはるかに強い現実さをもって記憶に残っている。
「三毛」はいろいろの点において「玉」とはまさに対蹠的《たいせきてき》の性質をもった雌猫であった。だれからもきれいとほめられる容貌《ようぼう》と毛皮をもって、敏捷《びんしょう》で典雅な挙止を示すと同時に、神経質な気むずかしさをもっていた。もちろん家族の皆からかわいがられ、あらゆる猫へのごちそうと言えばこの三毛のためにのみ設けられた。せっかく与える魚肉でも少し古ければ香をかいだままで口をつけない。そのお流れをみんな健啖《けんたん》な道化師の玉が頂戴《ちょうだい》するのであった。
 満七年の間に三十匹ほどの子猫の母となった。最後の産のあとで目立って毛が脱けた。次第に食欲がなくなり元気がなくなった。医師に見てもらうとこれは胸に水を持ったので治療の方法がないとの事であった。この宣告は自分たちの心を暗くした。そのころはもう一日ほとんど動かずに行儀よくすわっていて、人が呼ぶとまぶしそうな目をしばたたいて呼ぶ人の顔を見た。そうしていつものように返事を鳴こうとするが声が出なかった。
 最後の近くなったころ妻がそばへ行って呼ぶと、わずかにはい寄ろうとする努力を見せたが、もう首がぐらぐらしていた。次第に死の迫って来る事を知らせる息づかいは人間の場合に非常によく似ていた。
 遺骸《いがい》は有り合わせのうちでいちばんきれいなチョコレートのあき箱を選んでそれに収め、庭の奥の楓《かえで》の陰に埋めて形ばかりの墓石をのせた。
 玉が死んだ時は、自分が病気で弱っていたせいかなんとなく感傷的な心持ちがした。だれにもかわいがられずに生きて来てだれにも惜しまれずに死んで行くのがかわいそうであった。しかし三毛の死はみんなが惜しんでいるという自覚が自分の心の負担をいくぶん軽くするように思われるのであった。三毛の死後数日たって後のある朝、研究所を出て深川《ふかがわ》へ向かう途中の電車で、ふいと三毛の事を考えた。そして自然にこんな童謡のようなものが口ずさまれた。「三毛のお墓に花が散る。こんこんこごめの花が散る。芝にはかげろう鳥の影。小鳥の夢でも見ているか。」それからあとで同じようなものをもう三つ作って、それに勝手な譜をつけていいかげんの伴奏をもつけてみた。こんな子供らしい甘い感傷を享楽しうるのは対象が猫《ねこ》であるからであろう。
 一月ぐらいたって塩原《しおばら》へ行ったら、そこの宿屋の縁側へ出て来た猫が死んだ三毛にそっくりであるのに驚いた。だんだん見慣れるに従って頭の中の三毛の記憶の影像が変化して眼前の生きたものに吸収され同化されて行く不思議な心理過程に興味を感じた。われわれが過去の記憶の重荷に押しつぶされずに今日を享楽して行けるのは単に忘れるという事のおかげばかりではなくまた半ばはこれと同じ作用のおかげであろうと思われた。
 その後妻が近所で捨てられていた子猫《こねこ》を拾って来た。大部分まっ黒でそれに少しの白を交えた雌猫であった。額から鼻へかけての対称的な白ぶちが彼女の容貌《ようぼう》に一種のチャームを与えていた。著しく長くてしなやかなしっぽもその特徴であった。相当大きくなっていながら通りがかりの人に捕えられるくらいであるから鷹揚《おうよう》というよりはむしろ愚鈍であるかと思われた。しかしまた今までうちにいたどの猫にもできなかった自分で襖《ふすま》を明けて出はいりするという術を心得ていた。しっぽを支柱にしてあと足で長く立っていられるのもまたその特技であった。この「チビ」は最初の産褥《さんじょく》でもろく死んでしまった。その後|仙台《せんだい》へ行ってK君を訪問すると、そこにいた子猫がこれと全く生き写しなのでまた驚かされた。
 今では「三毛」の孫に当たる子猫の雌を親類からもらって来てある。容貌のみならずいろいろの性格に祖母の隔世遺伝がありあり認められるのに驚かされる事がしばしばある。
 自分はこれまでにもうたびたび猫の事を書いて来た。これからもまだ幾度となくそれをかくかもしれない。自分には猫の事をかくのがこの上もない慰藉《いしゃ》であり安全弁であり心の糧《かて》であるような気がする。
 Miserable misanthrope この言葉が時々自分を脅かす。人間を愛したいと思う希望だけは充分にもっていながら、あさはかな「私」にさえぎられてそれができないで苦しんでいるわれわれが、小動物に対してはじめて純粋な愛情を傾けうるのは、これも畢竟《ひっきょう》はわれわれのわがままの一つの現われであろう。自分は猫《ねこ》を愛するように人間を愛したいとは思わない。またそれは自分が人間より一段高い存在とならない限り到底不可能な事であろう。しかしそういう意味で、小動物を愛するという事は、不幸な弱い人間をして「神」の心をたとえ少しでも味わわしめうる唯一の手段であるかもしれない。

     舞踊

 死んだ「玉」は一つの不思議な特性をもっていた。自分が風呂場《ふろば》へはいる時によくいっしょにくっついて来る。そして自分が裸になるのを見てそこに脱ぎすてた着物の上にあがって前足を交互にあげて足踏みをする、のみならず、その爪《つめ》で着物を引っかきまたもむような挙動をする。そして裸体の主人を一心に見つめながら咽喉《のど》をゴロゴロ鳴らし、短いしっぽを立てて振動させるのであった。
 この不思議な挙動の意味がどうしてもわからなかった。いかなる working hypothesis すらも思いつかれなかった。むしろ一種の神秘的といったような心持ちをさえ誘われた。遠い昔の猫《ねこ》の祖先が原始林の中に彷徨《ほうこう》していた際に起こった原始人との交渉のあるシーンといったようなものを空想させた。丸裸のアダムに飼いならされた太古の野猫《やびょう》のある場合の挙動の遠い遠い反響が今目前に現われているのではないかという幻想の起こることもあった。
 猫が人間の喜びに相当するらしい感情の表現として、前足で足踏みをするのは、食肉獣の祖先がいい獲物を見つけてそれを引きむしる事をやったのとある関係があるのではないかという荒唐な空想が起こる。また一方原始的の食人種が敵人をほふってその屍《しかばね》の前に勇躍するグロテスクな光景とのある関係も示唆される。空想の翼はさらに自分を駆って人間に共通な舞踊のインスティンクトの起原という事までもこの猫《ねこ》の足踏みによって与えられたヒントの光で解釈されそうな妄想《もうそう》に導くのであった。
 赤ん坊の胴を持ってつるし上げると、赤ん坊はその下垂した足のうらを内側に向かい合わせるようにする。これは人間の祖先の猿が手で樹枝からぶら下がる時にその足で樹幹を押えようとした習性の遺伝であろうと言った学者があるくらいであるから、猫の足踏みと文明人のダンスとの間の関係を考えてみるのも一つの空想としては許されるべきものであろう。
[#地から3字上げ](昭和二年九月、思想)



底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年
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