ありがたい事である。自分のからだじゅうの血液ははじめてどこにも停滞する事なしに毛細管の末梢《まっしょう》までも自由に循環する。たぶんそのためであろう、脳のほうが軽い貧血を起こして頭が少しぼんやりする。聴覚も平生よりいっそう鈍感になる。この上もなく静寂で平和な心持ちである。
昼間暑い盛りに軽い機械的な調べ仕事をするのも気持ちがいい。あまり頭を使わないで、そしてすればするだけ少しずつ結果があがって行くから知らず知らず時を忘れ暑さを忘れる。
陶然として酔うという心持ちはどんなものだか下戸《げこ》の自分にはよくわからない。少なくも酒によっては味わえない。しかし暑い盛りに軽い仕事をして頭のぼうっとした時の快感がちょうどこの陶然たる微酔の感と同様なものではないかと思われる。そんなとき蝉《せみ》でもたくさん来て鳴いてくれるといいのであろうが、このへんにはこの夏のオーケストラがいないで残念である。
喫茶店《きっさてん》の清潔なテーブルへすわって熱いコーヒーを飲むのも盛夏の候にしくものはない。銀器の光、ガラス器のきらめき、一輪ざしの草花、それに蜜蜂《みつばち》のうなりに似たファンの楽音、ちょうどそ
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