甘い感傷を享楽しうるのは対象が猫《ねこ》であるからであろう。
一月ぐらいたって塩原《しおばら》へ行ったら、そこの宿屋の縁側へ出て来た猫が死んだ三毛にそっくりであるのに驚いた。だんだん見慣れるに従って頭の中の三毛の記憶の影像が変化して眼前の生きたものに吸収され同化されて行く不思議な心理過程に興味を感じた。われわれが過去の記憶の重荷に押しつぶされずに今日を享楽して行けるのは単に忘れるという事のおかげばかりではなくまた半ばはこれと同じ作用のおかげであろうと思われた。
その後妻が近所で捨てられていた子猫《こねこ》を拾って来た。大部分まっ黒でそれに少しの白を交えた雌猫であった。額から鼻へかけての対称的な白ぶちが彼女の容貌《ようぼう》に一種のチャームを与えていた。著しく長くてしなやかなしっぽもその特徴であった。相当大きくなっていながら通りがかりの人に捕えられるくらいであるから鷹揚《おうよう》というよりはむしろ愚鈍であるかと思われた。しかしまた今までうちにいたどの猫にもできなかった自分で襖《ふすま》を明けて出はいりするという術を心得ていた。しっぽを支柱にしてあと足で長く立っていられるのもまたその特技であった。この「チビ」は最初の産褥《さんじょく》でもろく死んでしまった。その後|仙台《せんだい》へ行ってK君を訪問すると、そこにいた子猫がこれと全く生き写しなのでまた驚かされた。
今では「三毛」の孫に当たる子猫の雌を親類からもらって来てある。容貌のみならずいろいろの性格に祖母の隔世遺伝がありあり認められるのに驚かされる事がしばしばある。
自分はこれまでにもうたびたび猫の事を書いて来た。これからもまだ幾度となくそれをかくかもしれない。自分には猫の事をかくのがこの上もない慰藉《いしゃ》であり安全弁であり心の糧《かて》であるような気がする。
Miserable misanthrope この言葉が時々自分を脅かす。人間を愛したいと思う希望だけは充分にもっていながら、あさはかな「私」にさえぎられてそれができないで苦しんでいるわれわれが、小動物に対してはじめて純粋な愛情を傾けうるのは、これも畢竟《ひっきょう》はわれわれのわがままの一つの現われであろう。自分は猫《ねこ》を愛するように人間を愛したいとは思わない。またそれは自分が人間より一段高い存在とならない限り到底不可能な事であろう。しかしそういう意味で、小動物を愛するという事は、不幸な弱い人間をして「神」の心をたとえ少しでも味わわしめうる唯一の手段であるかもしれない。
舞踊
死んだ「玉」は一つの不思議な特性をもっていた。自分が風呂場《ふろば》へはいる時によくいっしょにくっついて来る。そして自分が裸になるのを見てそこに脱ぎすてた着物の上にあがって前足を交互にあげて足踏みをする、のみならず、その爪《つめ》で着物を引っかきまたもむような挙動をする。そして裸体の主人を一心に見つめながら咽喉《のど》をゴロゴロ鳴らし、短いしっぽを立てて振動させるのであった。
この不思議な挙動の意味がどうしてもわからなかった。いかなる working hypothesis すらも思いつかれなかった。むしろ一種の神秘的といったような心持ちをさえ誘われた。遠い昔の猫《ねこ》の祖先が原始林の中に彷徨《ほうこう》していた際に起こった原始人との交渉のあるシーンといったようなものを空想させた。丸裸のアダムに飼いならされた太古の野猫《やびょう》のある場合の挙動の遠い遠い反響が今目前に現われているのではないかという幻想の起こることもあった。
猫が人間の喜びに相当するらしい感情の表現として、前足で足踏みをするのは、食肉獣の祖先がいい獲物を見つけてそれを引きむしる事をやったのとある関係があるのではないかという荒唐な空想が起こる。また一方原始的の食人種が敵人をほふってその屍《しかばね》の前に勇躍するグロテスクな光景とのある関係も示唆される。空想の翼はさらに自分を駆って人間に共通な舞踊のインスティンクトの起原という事までもこの猫《ねこ》の足踏みによって与えられたヒントの光で解釈されそうな妄想《もうそう》に導くのであった。
赤ん坊の胴を持ってつるし上げると、赤ん坊はその下垂した足のうらを内側に向かい合わせるようにする。これは人間の祖先の猿が手で樹枝からぶら下がる時にその足で樹幹を押えようとした習性の遺伝であろうと言った学者があるくらいであるから、猫の足踏みと文明人のダンスとの間の関係を考えてみるのも一つの空想としては許されるべきものであろう。
[#地から3字上げ](昭和二年九月、思想)
底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
1964(昭和39)年
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