の不慮の死に関する一つの暗示ででもあったような気がしてならない。
 あの時同じ列にすわった四五人の中でもう二人は故人となった。そのもう一人は歌人のS・A氏である。

     過去帳

 丑女《うしじょ》が死んだというしらせが来た。彼女は郷里の父の家に前後十五年近く勤めた老婢《ろうひ》である。自分の高等学校在学中に初めて奉公に来て、当時から病弱であった母を助けて一家の庶務を処理した。自分が父の没後郷里の家をたたんでこの地へ引っ越す際に彼女はその郷里の海浜の村へ帰って行った。彼女の家を立てるべき弟は日露戦争で戦死したために彼女はほんとうの一人ぽっちであったので、他家に嫁した姉の女の子を養女にしてその世話をしているという事であった。
 母の存命中は時々手紙をよこしていたが、母の没後は自然と疎遠になっていたので今度の病気の事も知らないでいた。年とってからはいろいろの病気をもっていたそうであるから、たぶんはそのうちのどれかのために倒れたものであろう。
 彼女はあらゆる意味で忠実な女であった。物事を中途半端にすることのできないたちであった。その性質は自然に往々「我」の強さの形をとって現われた。また一方無学ではあるが女には珍しい明晰《めいせき》なあたまと鋭い観察の目をもっていた。だれでもかまわず無作法にじっと人の顔を見つめる癖があった、その様子が相手の目の中からその人の心の奥の奥まで見通そうとするようであった。実際彼女にはそういう不思議な能力が多分にあったように見える。人間の技巧の影に隠れた本性がそのままに見えるらしかった。そういう点で彼女は多くの人からはむしろはばかられあるいは憎まれたようである。たださすがに女であるだけに自分自身の内部を直視する事はできなかったらしい。
 ある時ある高い階級の婦人が衆人環視の中で人力車を降りる一瞬時の観察から、その人の皮膚のある特徴を発見してそれを人に話したので、実に恐ろしい女だと言ってそれが一つ話になった。
 彼女は日本の女には珍しい立派な体格の所有者であった。容貌《ようぼう》も醜くないルーベンス型に属していた。挙動は敏活でなくてむしろ鈍重なほうであったが、それでいて仕事はなんでも早く進行した。頭がいいからむだな事に時を費やさないのである。そうして骨身を惜しむ事を知らないし、油を売る事をしらなかったせいであろう。
 自分は彼女の忠実さに迷惑を感ずる事も少なくなかった。かまわないで打っちゃっておいてもらいたい事を決してそうはしてくれなかった。つまり二つの種類のちがったイーゴイストはこの点で到底|相容《あいい》れる事ができなかったのであろう。
 妙な事を思い出す。父の最後の病床にその枕《まくら》もと近く氷柱を置いて扇風器がかけてあった。寒暖計は九十余度を越して忘れ難い暑い日であった。丑女《うしじょ》はその氷柱をのせたトタン張りの箱の中にとけてたまった水を小皿《こざら》でしゃくっては飲んでいた。そんなものを飲んではいけないと言って制したが、聞かないで何杯となくしゃくっては飲んでいた。彼女の目の周囲には紫色の輪ができていた事をはっきり思い出す事ができる。
 昨年母の遺骨を守って帰省した時に、丑女はわざわざ十里の道を会いに来てくれた。その時彼女の髪の毛に著しく白いものが見えて来たのに気がついた。自分の年老いた事を半分自慢らしく半分心細そうに話した。たぶんことしで五十二三歳であったろうと思う。
 自分の若かった郷里の思い出の中にまざまざと織り込まれている親しい人たちの現実の存在がだんだんに消えてなくなって行くのはやはりさびしい。たとえ生きていてももう再び会う事があるかどうかもわからず、通り一ぺんの年賀や暑中見舞い以外に交通もない人は、結局は思い出の国の人々であるにもかかわらず、その死のしらせはやはり桐《きり》の一葉のさびしさをもつものである。
 雑記帳の終わりのページに書き止めてある心覚えの過去帳をあけて見るとごく身近いものだけでも、故人となったものがもう十余人になる。そのうちで半分は自分より年下の者である。これらの人々の追憶をいつかは書いておきたい気がする、しかしそれを一々書けば限りはなく、それを書くという事はつまり自分の生涯《しょうがい》の自叙伝を書く事になる。これは容易には思い立てない仕事である。そうしておそらくそれを書き終わるより前に自分自身がまただれかの過去帳中の人になるであろう。
 身近い人であればあるほどその追憶の荷はあまりに重くて取り上げようとする筆の運びを鈍らせる。ただ思い出の国の国境に近く住むような人たちの事だけが比較的やすらかな記録の資料となりうるようである。
 自分の過去帳に載せらるべくしてまだ載せられてないものには三匹の飼い猫《ねこ》がある。不思議な事には追懐の国におけるこれらの家畜は人
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