究が今後次第に進歩して行けばこの方面から意外の鍵《かぎ》が授けられて物質と生命との間に橋を架ける日が到着するかもしれないという空想が起こる。
街上を往来している人間の数についてある統計を取ってみると、その結果は、個々の人間もあたかも無生のガス分子ででもあると同様な統計的分布を示す事が証明される。もし人間以外のあるものが他の世界からこれら街上の人間についてただこのような統計的分布に関係した事がらのみを観察していたならば、そのものの目には、人間は無生の微分子としか見えないであろう。そうして、その同じ微分子が、一方で有機的な国家社会的の機関を構成しているのを見てその有機体の生命の起原を疑い怪しむに相違ない。
このアナロジーから喚起される一つの空想は、もしや生命の究極の種が一つ一つの物質分子の中にすでに備わっているのではないかという事である。物理学者はおそらくただその統計的の現われのみを観察しているのではないだろうか、そうして無生の微粒と思っているものが生物という国家を作り社会を組織しているのに会って驚き怪しんでいるのではないだろうか。
同一元素の分子の個々のものに個性の可能性を認めようとした人は前にもあった。ついでに原子個々にそれぞれ生命を付与する事によって科学の根本に横たわる生命と物質の二元をひとまとめにする事はできないものだろうか。
金米糖の物理から出発したのが、だんだんに空想の梯子《はしご》をよじ登って、とうとう千古の秘密のなぞである生命の起原にまでも立ち入る事になったのはわれながら少しく脱線であると思う。近年の記録を破ったことしの夏の暑さに酔わされた痴人の酔中語のようなものであると見てもらうほうが適当かもしれない。
それにしてもこのおもしろい金米糖が千島《ちしま》アイヌかなんぞのように滅びて行くのは惜しい。天然物保存に骨を折る人たちは、ついでにこういうものの保存も考えてもらいたいものである。
風呂の流し
風呂《ふろ》の流しいわゆる三助《さんすけ》というものはいつの世に始まったものか知らないが考えてみると妙な職業である。大きな宿屋などの三助ででもあれば、あたりまえなら接近する事も困難なような貴顕のかたがたを丸裸にしてその肢体《したい》を大根かすりこぎででもあるように自由に取り扱って、そうしておしまいには肩や背中をなぐりつけ、ひねくり回すのである。また昔西洋の森の中にすんでいたサティールででもなければ見られなかったはずの美しいニンフたちの姿を、なんら罰せらるる事なしに日常に鑑賞し賛美する特権をもっているわけである。
西洋にも同じような職業があったと見えて、古い木版画でその例を見た事がある。大きな青竜刀《せいりゅうとう》の柄《え》を切ったようなものをさげていて、これでごしごし垢《あか》でもこするのではないかと思われた。やはり褌《ふんどし》のようなものをしているのがおもしろかった。
私は銭湯へ通《かよ》っていた時代にも、かつてこの流しをつけた事がない。自分でも洗えば洗われる自分の五体を、どこのだれだかわからぬ男に渡してしまって物品のように取り扱われる気にどうしてもなれなかったのである。
しかし、困った事には旅行をして少し宿屋らしい宿屋に泊まると、きっと強制的にこの流しをつけられる。これは断わればいいのかもしれないが、わざわざ断わるのもぐあいが悪いので観念して流させる事にしている。非常に気持ちが悪い。ことにいちばん困るのは、按摩《あんま》のつもりでやせた肩をなぐりつけ捻《ひね》りつけられる事である。頭や腹へ響いて苦痛を感じる。もうたくさんであると言っても存外すぐにはやめてくれない。誠に迷惑である。丁寧なのになると、流しが終わってもいつまでもそばについていて、最後にタオルまですすいでくれる。監視されながらの入浴はなんとなく気づまりでこれも迷惑である。
友人たちにこの事を話してみるに、自分に同情する人はまだない。ある人は流しがなるべく念入りで按摩も十二分にやらないと不愉快であるという。また一人は旅行中宿屋の風呂《ふろ》の流しで三助からその土地の一般的知識を聞き出すのが最も有効でまた最も興味があるというのである。
そうしてみると、世の中には、多くの人に喜ばれる流しをはなはだしく嫌忌《けんき》する人間もまれにはあるという事実を一つの事実として記録しておく事もむだではないかもしれない。
ついでながら精神的の方面でこの風呂の三助に相当する職業もあるようである。心の垢《あか》を落とすのも、からだの垢を落とすのも、商売となれば似たものではないだろうか。この心の三助に対しても私は取捨の自由を与えらるる事を希望するものである。
調律師
種々な職業のうちでピアノの調律師などは、当人にはとにかく、はたから
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