ыの率を算出し、この両者を比較して、その結果から甲乙丙いずれが最も穏当であるかを決定すべきである。
統計的方法の長所は、初めから偶然を認容してかかる点にある。いろいろな「間違い」や「杜撰《ずざん》」でさえも、最後の結果の桁数《オーダー》には影響しないというところにある。そして、関係要素の数が多くて、それら相互の交渉が複雑であればあるほど、かえってこの方法の妥当性がよくなるという点である。
それで、この方法を真に有効ならしむるには、むしろあらゆる独断、偏見、臆説《おくせつ》をも初めから排する事なく、なるべくちがったものをことごとくひとまず取り入れて、すべての可能性を一つ一つ吟味しなければならない。軽々しい否定は早急な肯定よりもはるかに有害であるからである。これは実験的科学を研究する者に周知の事である。また往々にして忘却される事である。もっともこういうたんねんの吟味をするにはかなりの手数と時間を要する。それかと言って、いつまでもなんらかこの種の方法をとらなければ、独断と独断との間の討論の終結する見込みは立たないように思われるのである。いかにめんどうでも遂行すればするだけ、あともどりはしないであろうと信ずる。しかもそのほう専門の研究者の専門の仕事として見る時は、他の科学者、たとえば天文学者、物理学者、化学者などの仕事に比してそれほどにめんどうな仕事とは決して思われないのである。
もちろん、これも他の科学の場合と全く同様に、初めからそううまくは行かないであろう。そうして、すべての可能なるものへの試みの「不可能」を「証明」し、抹殺《まっさつ》する事にのみ興味をもつ「批評家」の批評を受けなければなるまい。しかしあらゆる「精密科学」はその根底において、ちょうどかくのごとき方法を取って進んで来たものである。すべてがそのはじめは不精密なる経験の試験的整理を幾重となく折り返し繰り返し重ねて、漸進的に進んで来たものである。その昔、独断と畏怖《いふ》とが対峙《たいじ》していた間は今日の「科学」は存在しなかった。「自然」を実験室内に捕えきたってあらゆる稚拙な「試み」を「実験」の試練にかけて篩《ふる》い分けるという事、その判断の標準に「数値」を用いるという事によって、はじめて今日の科学が曙光《しょこう》を現わしたと思われる。もし古来の科学者が、「試み」なしの臆断《おくだん》を続けたり、「試み」の結果を判断する合理的の標準なしに任意の結論を試みたり、あるいは「試み」に伴なう怪我《けが》のチャンスを恐れて、だれも手を下す事をあえてしなかったら、現在のわれわれの自然界に関する知識と利用収穫は依然として復興期以前の状態で足踏みをしていたであろう。そしてまた現在の進歩した時代から見た時に幼稚に不完全に見えないものがいかなる初期の科学の部門に見いだされうるであろうか。
余談はしばらくおいて、AB、AC、AD……の関係、なお念のために比較の主客を置換してBA、CA、DA……の関係の濃度に対するだいたいの比較的の数値を定める事ができたとすれば、少なくもここにABという一つの「鎖の輪」が、従来よりはやや科学的な根拠の上に仮設される。さすれば次には、前にAについて行なったと同様の方法を、今度はBについて行なうべきである。そうしてともかくも、BCという、「次の輪」の見当をつける。順次かくのごとくして、できるならばまた、世界の各方面から出発して、同じようにして、それぞれの鎖を――もちろんそういう鎖が存在するとの作業仮設のもとに――たぐって行く。もし多くの人の信ずるであろうごとく、この数々の鎖が世界のどこかに自然と集合すれば簡単である。さすればその焦点に集中した要素をやや確かに把握《はあく》し得らるるから、今度は逆の順序によってこの焦点から発散し拡散した要素の各時代における空間的分布を験する事ができる、その時に至ってはじめて、この編の初めに出した拡散に関する数式がやや具体的の意義を持って現われて来るであろう。もっともそれはできるとしてもはなはだ遠い未来において始めて実現されうる事であろう。
しかし上に考えた鎖はおそらく一点には集中しないであろう、それがどう食い違うか、そこに最も興味ある将来の問題の神秘の殿堂の扉《とびら》が遠望される。この殿堂への一つの細道、その扉を開くべき一つの鍵《かぎ》の、おぼろげな、しかも拙な言葉で表現された暗示としてのみ、この一編の正当な存在の意義を認容される事ができれば著者としてむしろ望外の幸いである。
自分はできるだけ根拠なき臆断《おくだん》と推理を無視する空想を避けたつもりである。しかし行文の間に少しでも臆断のにおいがあればそれは不文の結果である。推理の誤謬《ごびゅう》や不備があればそれは不敏のいたすところである。このはなはだ僭越《せんえつ》と考えらるべき門外漢の一私案が、もし専門学者にとってなんらかの参考ともならば、著者としての喜びはこれに過ぎるものはない。
思うにこの私案の第一歩の試みを最も有効に遂行するためには、おそらく言語学者と科学者との協力が必要ではないかと思われる。もしこの両者が共同し、その上に機械的の計算や統計を担当する助手の数人の力をかりることができれば、仕事はかなりおもしろく進行しそうに思われる。しかしこのほうがむしろおそらく夢のような空想であるかもしれない。
(付記) 以上の考察においては、最もこの種の取り扱いに便宜だというだけの理由から、単に「語彙《ごい》」「単語」のみを問題として、語辞構成法や文法上の問題には少しも触れなかった。しかし自分は決して後者の比較の重要な事を無視しているのではない事を断わっておきたい。もっとも文法のごときものでも、これを数理的の問題として取り扱う事が必ずしも不可能とは思われない。事がらが、見方によってはある有限数の型式的要素の空間的排列の方式に関するものであると見る事ができるからである。輓近《ばんきん》の数学の種々な方面の異常な進歩はむしろいろいろな新しいこの方面の応用を暗示するようである。また「除外例」というもののある事から起こる困難は、統計的方法の利器によって、少なくもある度まで救われうる見込みがある。これについては、さらに、機会があったら、いくぶん具体的に考えを進めてみたいという希望をもっている。
最後に誤解のないために断わっておく必要のあるのは、従来とても統計的のやり方はあるにはあるが、単に数をかぞえて多いとか少ないとかいうだけではなんらのほんとうの統計としての意味がないという事である。全体に対する実際の符合率が偶然による符合率に対する比のみが意味をもつ、ここではそれを問題にしたという事である。
[#地から3字上げ](昭和三年三月、思想)
底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
1997(平成9)年5月6日第70刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2003年10月30日修正
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