うやく止む。鐘《かね》が淵《ふち》紡績《ぼうせき》の煙突《えんとつ》草後に聳《そび》え、右に白きは大学のボートハウスなるべし、端艇《ボート》を乗り出す者二、三。前は桜樹の隧道《ずいどう》、花時思いやらる。八重桜多き由なれど花なければ吾には見分け難し。植半《うえはん》の屋根に止れる鳶《とび》二羽相対してさながら瓦にて造れるようなるを瓦じゃ鳥じゃと云ううち左なる一羽嘲るがごとく此方《こっち》を向きたるに皆々どっと笑う。道傍に並ぶ柱燈|人造麝香《じんぞうじゃこう》の広告なりと聞きてはますます嬉しからず。渡頭《わたしば》に下り立ちて船に上る。千住《せんじゅ》よりの小蒸気けたゝましき笛ならして過ぐれば余波|舷《ふなばた》をあおる事少時。乗客間もなく満ちて船は中流に出でたり。雨催《あまもよい》の空濁江に映りて、堤下の杭に漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《れんい》寄するも、蘆荻《ろてき》の声静かなりし昔の様尋ぬるに由なく、渡番小屋《わたしばんごや》にペンキ塗の広告看板かゝりては簑《みの》打ち払う風流も似合うべくもあらず。今戸《いまど》の渡《わたし》と云う名ばかりは流石《さすが》に床《ゆか》し。山谷堀《さんやぼり》に上がれば雨はら/\と降り来るも場所柄なれば面白き心地もせらる。さりとて傘持たぬ一同、たとえ張子ならずとも風邪など引いては面白からねば大急ぎにて雷門前まで駈け付く。先を争いて馬車に乗らんとあせる人狂気のごとく、見る間に満員となりて馳せ出せば友にはぐれて取り残さるゝ人も多し。来る馬車も/\皆満員となりて乗る折もなし。婦人連れの事なれば奮発してようよう上等に乗ればこれもやはりギシつみにて呼吸も出来ざるをようようにして上野へ着けば雨も小止みとなりける。こゝに一行と別れて山内に入る。
 人ようよう散じて後れ帰るもの疎《まばら》なり。向うより勢いよく馳せ来る馬車の上に端坐せるは瀟洒《しょうしゃ》たる白面の貴公子。たしか『太陽』の口絵にて見たるようなりと考うれば、さなり三条|君美《きみとみ》の君よと振返れば早や見えざりける。また降り出さぬ間と急いで谷中《やなか》へ帰れば木魚の音またポン/\/\。[#地から1字上げ](明治三十二年九月)



底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1996(平成8)年12月5日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」
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