夕食を食っていた。九歳の時に人力車で三日かかって吉浜まで来たことを考え合わせてみると、現代のわれわれは昔の人に比べて五倍も十倍も永生きをするのと同等だという勘定になるかもしれない。
 熱海ホテルの海に面した芝生は美しい。去年見た新解釈「金色夜叉」の芝居で柳永二郎の富山がお宮の母と貫一の絶縁条件を値踏みしなが「二万円もやりぁいいでしょう」と云ったあの舞台面は多分ここをモデルにしたものらしいと思われた。
 箱根ホテルでは勘定をもって来てくれと四、五度も頼んで待ち草臥《くたび》れた頃にやっと持って来たのであったが、熱海ホテルの方ではまだお茶を飲んでいる最中に甲斐甲斐《かいがい》しい女給仕が横書きの勘定書をもって来て、「サービス三十銭頂戴します」と云った。箱根の山の中と十国峠を越えた太平洋岸の熱海とで、このくらい文化の程度と性質が違うものかと云って内証でみんなと笑ったことであった。
 帰りの汽車では忘れずに農園のチューリップと、チューリップの農園の概観を網膜に写すことによって往路の小発見の満足を蒸し返し完成することを忘れなかった。
 関八州《かんはっしゅう》が急に狭くなったような気がして帰って来たが、東京駅から駒込までの馴れた道筋はその割に存外遠いような気もした。
 気紛れにいつもは出たことのない東京駅東口へ出てそこから車を拾って帰ったが、それだけのちがいで東京がいつもの東京と少し違った東京のように見えた。われわれの「まだ知らない東京」は無限に多数にあるらしい。[#地から1字上げ](昭和十年六月『短歌研究』)



底本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店
   1997(平成9)年3月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「短歌研究」
   1935(昭和10)年6月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2006年10月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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