記憶を彩っているようである。
 その頃の熱海行きは、国府津まで汽車で行って国府津から小田原まで電車、小田原からは人車鉄道という珍しい交通機関によるのであった。立ったら頭の閊《つか》える箱の中に数人の客をのせたのを二、三人の人間が後押しして曲折の多い山坂を登る。登るときは牛のようにのろい代りに、下り坂は奔馬のごとくスキーのごとく早いので、二度に一度は船暈《ふなよい》のような脳貧血症状を起こしたものである。やっと熱海の宿に着いて暈《よい》の治りかけた頃にあの塩湯に入るとまたもう一遍軽い嘔気を催したように記憶している。
 無闇に井戸を掘って熱泉を噴出させたために規則正しい大湯の週期的噴泉に著しい異状を来したというので県庁の命令で附近の新しい噴泉井戸を埋めることになった。自分は官命によってその埋井工事を見学に行ったが、それは実に珍しい見ものであった。二、三十尺の高さに噴き上げている水と蒸気を止めるために大勢の人夫が骨を折って長《たけ》三|間《げん》、直径二インチほどの鉄管に砂利をつめたのをやっと押し込んだが噴泉の力ですぐに下から噴き戻してしまうので、今度は鉄管の中に鉄棒を詰めて押し入れたらやっと噴出が止まった。その止まり方がまた実に突然で今までの活劇がまるで嘘であったように思われた。そのときの不思議な気持だけは今でもはっきり思い出すことが出来る。人間の感情の噴出でもこれに似た現象があるような気がするのである。
 日露戦争直後で負傷者が大勢療養に来ていたのはその時であったかと思う。郷里の中学の先輩がその負傷者の中に居たのにひょっくりめぐり合って戦争の話を聞かされ、戦争というものの不思議さをつくづく考えさせられた。
 その後にまた、大湯附近の空気中のイオンを計測するために出張を命ぜられて来たときは人車鉄道が汽車の軽便鉄道に変っていたが、それでもまだやはり朝東京を出て夕方熱海へ着く勘定であったように思う。去年はじめて省線電車で熱海へ行ったときは時間の短縮した代りに「昔の熱海」を捜すのに骨が折れた。大湯の近くまで来てみてやっと追憶の温泉町を発見したが、あまりに甚だしい変り方に呆れて何となく落着く気になれなかったので、そのまま次の汽車で引返して帰って来た。
 今日は朝の九時半頃家を出て箱根で昼飯を食って二時には熱海へ来た。そうして熱海ホテルでお茶を飲んで七時にはもう宅《うち》へ帰って
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