醸成したセンセーショナルな事件は珍しくもない。例えば三原山の火口に人を呼ぶ死神などもみんな新聞の反古《ほご》の中から生れたものであることは周知のことである。
 第三十八段、名利《みょうり》の欲望を脱却すべきを説く条など、平凡な有りふれの消極的名利観のようでもあるが、しかしよく読んでみると、この著者の本旨は必ずしも絶対に名利を捨てよというのではなく、「真の名利」を求めるための手段として各人の持つべき心掛けを説いているようにも思われる。それはとにかく、現代に活動している人でもこの一段の内容を適当に玩味することが出来れば名利の誘惑に逢って身を亡ぼすような災難を免れるだけの護符を授かるであろうと思われる。第百三十段もこれに聯関している。
 名利観に限らず、この著者は色々な点で人間の人間らしい人間性というかあるいは弱点というか、そういうものを事実として肯定した上で、これに対するプラグマチックな処世道を説いているようなところがある。第五十八段に実用向遁世法を説いているのなどもその傾向を示すかと思う。この著者がどうかすると腥《なまぐ》さ坊主と云われる所以《ゆえん》かもしれない。
 一方では玉の巵《さかずき》に底あることを望んだり、久米《くめ》の仙人に同情したり、恋愛生活を讃美したりしているが、また一方では(第百七段)ありたけの女性のあらを書き並べて痛快にこき下ろしているのである。一種の弁証法を用いたのであろう。
 色を説いた著者はまた第二百十七段で蓄財者の心理を記述しこれに対する短評を試みている。引用された大福長者の言葉は現代の百万長者でもおそらく云うことであろうし、金持になりたい人々の参考すべき「何とか押切帖《おしきりちょう》」の類であろうが、またこれに対する著者の評は、金のたまらぬ人間の安心立命《あんじんりゅうめい》の考え方を示すものである。
 酒飲む人のだらしのなさを描いた第百七十五段も面白い。六百年昔の酒飲みも今日の呑んだくれとよく似ている。それで絶対に禁酒を強調するかと思っていると、「おのづから捨てがたき折もあるべし」などとそろそろ酒の功能を並べているのもやはり「科学的」なところがある。
 勝負事を否定する(第百十一段)かと思うと、双六《すごろく》の上手の言葉を引いて(第百十段)修身治国の道を説いたり、ばくち打の秘訣(第百二十六段)を引いて物事には機会と汐時《しおどき》を見るべきを教えている。この他にも賭事《かけごと》や勝負に関する記事のあるところを見ると著者自身かなりの体験があったことが想像されて面白い。
 宿河原《しゅくがわら》のぼろぼろの仇討決闘の話でも、我執無慙《がしゅうむざん》を非難すると同時にまた「死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよさ」を讃えている。
 これらの著者の態度は一方から云えば不徹底で生煮えのようでもあるが、ものの両面を認識して全体を把握し、しかもすべての人間現象を事実として肯定した上で、可と不可とに対する考えをきめようとしているらしく思われる。この点がどこか吾々科学者の心掛けるものの見方に類するところがあるように思われるのである。
 以上述べたような項目の外に著しく多数に散在しているのは有職故実《ゆうそくこじつ》その他あらゆる知識に関するノートと云ったものである。これらも分類的に研究したら面白そうであるが今回は暇がないから略する。とにかく一方では遁世守愚をすすめながらも、また一方では知識というものの効能を高く買っていることがよくわかる。第五十一段の水車の失敗は先日の駆逐艦進水式の出来損ねを思い出させる。
 知識とは少しちがう「智恵」については第三十八段に「智恵出でては偽あり」とか「学びてしるは、まことの智にあらず」などと云っているのは現代人にも思い当たるふしがあるであろう。
 智恵の遊戯とも見られるウィティシズムの類例もいくつかある。第八十六、第百六、第百三十五などがそれであるが、これらにも多少の俳諧がある。
 子供の時から僧になった人とちがって、北面武士から出発し、数奇の実生活を経て後に頭を丸めた坊主らしいところが到る処に現われている。そうしてそういう人間が、全く気任せに自由に「そこはかとなく」「あやしう」「ものぐるほしく」矛盾も撞着《どうちゃく》も頓着しないで書いているところに、この随筆集の価値があるであろう。これらの矛盾撞着によって三段論法では説けない道理を解説しているところにこの書の妙味があるであろう。
 第八十段にディレッタンティズムに対する箴言《しんげん》がある。「人ごとに、我が身にうとき事をのみぞこのめる」云々の条は、まことに自分のような浮気ものへのよい誡《いまし》めであって、これは相当に耳が痛い。この愚かな身の程をわきまえぬ一篇の偶感録もこのくらいにして差控えるべきであろう。
 ある日の午前に日比谷近く帝国ホテルの窓下を通った物売りの呼び声が、丁度偶然そのときそこに泊り合わせていた楽聖クライスラーの作曲のテーマになったという話があったようである。自分の怪しう物狂おしいこの一篇の放言がもしやそれと似たような役に立つこともあれば、それによって幾分か僭上《せんじょう》の罪が償われることもあろうかと思った次第である。
[#地から1字上げ](昭和九年一月『文学』)



底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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