た第百十二段に大事の前に小事を棄つべきを説く条でも同様である。国のために、道のために、主義のために、真理の探究のために心を潜めるものは、今日でも「諸縁を放下《ほうげ》すべき」であり、瑣々《ささ》たる義理や人情は問題にしないのである。それが善い悪いは別として、そうしなければ大願望が成就《じょうじゅ》しないことだけはたしかである。そういう「事実の方則」がこの書の到る処に強調されているのを見逃すことは出来ないのである。
 かように、一方では遁世を勧めると同時に、また一方では俗人の処世の道を講釈しているのが面白い。これは矛盾でもなんでもない。ただ同じ事のちがった半面を云っているのであろう。
 世間に立交《たちまじ》わって人とつき合うときの心得を説いたものが案外に多い。これも現代にそのまま適用するものが多い。いわゆる「成功の秘訣」にでもありそうなことや、「英国風紳士道教程」の一つのチャプターといったようなもののあるのは面白い。第十二、三十六、三十七、五十六、七十三、百七等の諸段はその例である。いずれも平凡と云えば平凡のことであるが、この平凡事を忘れているために大きな損をしている人は現在の世間にでも存外多いらしい。
 第百九十三段「くらき人の、人をはかりて、その智を知れりと思はん、更にあたるべからず、云々」の条など現代の諸専門学者の坐右銘になる。ある一つの狭い専門の領域内でほんの少しばかり得るところが出来ると、もうすっかり思い上がって、冷静な第三者から見ればその人とは到底比較にならぬほど優れた他の学者のほんの少しの知識の不足を偶然に発見でもすると、それだけでもう自分がその相手に比して全般的に優ると思ったりするのは滔々《とうとう》として天下の風をなしている。人の書いた立派な著書の中から白玉《はくぎょく》の微瑕《びか》のような一、二の間違いを見付けてそれをさもしたり顔に蔭で云いふらすのなどもその類であるかもしれない。これは悪口でなく本当にある現象である、
 その次の第百九十四段及び第七十三段に「嘘のサイコロジー」を論じたものなども科学者の参考になる。これは「嘘」とは事変るが、アインシュタインの相対性原理がまだ十分に承認されなかった頃、この所論に対する色々な学者の十人十色の態度を分類してみると、この『徒然草』第百九十四段の中の「嘘に対する人々の態度の種々相」とかなりまでぴったり当て嵌
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