涯《しょうがい》の住居を定められた。自分はそのころ小石川原町《こいしかわはらまち》にいて曙町には近いものだから、時々ヴァイオリンをさげて行っては先生のピアノのお相手をした。そのヴァイオリンはもはや昔の九円のではなかったのである。先生はよくシューベルトの歌曲を歌って聞かせられたが、お得意のレペルトアルは、〔Sta:ndchen, Am Meer, Im Dorfe, Doppelga:nger, Erlko:nig, Leiermann, Lindenbaum etc.〕 であった。それから Reissiger の Zwei Grenadier とか Die Uhr などもよく歌われたものである。いつかのニュートン祭にやはりこの「エルケーニヒ」か何か歌われたことがあると思うが、そういうときでも先生は、「要するに、やるという事がハウプトザッヘだから……」と言って、決して巧拙のできばえなどは問題にされなかった。
酒も煙草《たばこ》も甘いものもいっさいの官能的享楽を顧みなかった先生は、謡曲でも西洋音楽でも決してそれがただの享楽のためではなくて、やることが善《よ》いことだからやるのだというように見えた。休日に近郊などへ散歩に出かけられるのでも、やはり同様な見地からであったように自分には思われる。
下手《へた》な論文を書いて見ていただくと、実に綿密に英語の訂正はもちろん、内容の枝葉の点に至るまで徹底的に修正されるのであった。一度鉛筆で直したのを、あとで、インキでちゃんと書き入れて、そうして最後に消しゴムですっかり鉛筆を消し取って、そのちりを払うことまで先生がやられるので、こっちではかえってすっかり恐縮してしまって、「私やりますから」と言っても、平気ですみからすみまで手を入れ、おしまいまで自身の手できれいにやってしまわないと気がすまないというふうであった。そういう時にいつも言われた「とにかく、ちゃんとしておかなくちゃ」という先生の言葉は、いろいろの場合にいつもよく聞かされ耳の奥にしみ込んで忘れられないものである。いかなる事がらでも「ちゃんとして」おかなければ決して済まされなかった。残らずさし合わせた釘《くぎ》一本のわずかなゆるみでも決して見のがし捨ててはおかれなかったのである。
先生のノートや原稿を見るときれいな細字で紙面のすみからすみまでぎっしり詰まっていて、「余白」というものがほとんどなかったようである。
しかし先生は、「むだ」や「余白」だらけのだらしのない弟子《でし》たちに対して、真の慈父のような寛容をもって臨み、そうしてどこまでも懇切にめんどうを見てやるのに少しも骨身を惜しまれなかったように見える。自分がだらしがなくて、人には正確を要求する十人並みの人間のすることとは全く反対であったのである。
先生が、もう少しだらしのない凡人であってくれたら、そうしたらおそらくもう少し長生きをされて、そうしてもう少し長く後進のためにもめんどうを見てくださることができ、また先生としてももう少しのどかな生涯《しょうがい》を送られたではないかという気がすることもある。しかしそれは結局だらしのない人間の言うことで、先生は先生としての最も意義ある最も充実した生涯を完成されたのであろう。
こうして書き出してみると、先生の思い出はあとからあとから数限りもなく出て来るのであるが、この機会にはやはりこれくらいにして筆をおいたほうが適当であろうと思う。
記憶違いのために事実相違の点もいろいろあるかもしれない。それについては読者の寛容を願いたいと思う。
先生がかりに再生されて、この追憶を読まれたら、と想像してみる。先生はやっぱりにこにこして、何か一言ぐらい鋭いリマークをされて、そうして、それきりでゆるしてくださるであろうという気がするのである。
[#地から3字上げ](昭和七年十二月、理学部会誌)
底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
1993(平成5)年2月5日第59刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年2月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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