んでもきらいだという悪太郎どもにとっては、先生の勤勉と、正確というよりも先生の教える学問のむつかしさが少なからず煙たくもあったらしい。当時、アメリカの民謡の曲を取った「ヒラ/\と連隊旗」という唱歌があったが、それを、もう一ぺんもじってこしらえたパロディーの戯歌がはやっていた。その歌詞の中には、先生の名も他の多くの先生がたと一度に槍玉《やりだま》にあげられていた。そうして「いざあばれ、あばあれ」というのがこの愉快な歌のリフレインになっていたのである。
 第二学年の学年試験の終わったあとで、その時代にはほとんど常習となっていたように、試験をしくじった同郷同窓のために、先生がたの私宅へ押しかけて「点をもらう」ための運動委員が選ばれた時、自分もその一員にされてしまった。そうしてそのためにもう一人の委員と連れ立って始めて田丸先生の下宿を尋ねた。当時先生の宿は西子飼橋《にしこがいばし》という橋の近くで、前記の化学のK先生と同宿しておられた。厳格な先生のところへ、そういう不届き千万な要求を持ち込むのだから心細い。しかられる覚悟をきめて勇気をふるって出かけて行ったが、先生は存外にこうしたわれわれの勝手な申しぶんをともかくも聞き取られた。しかしもちろんそんなことを問題にはされるはずがなかった。その要件の話がすんだあとで、いろいろ雑談をしているうちに、どういうきっかけであったか、先生が次の間からヴァイオリンを持ち出して来られた。まずその物理的機構について説明された後に、デモンストレーションのために「君が代」を一ぺんひいて聞かされた。田舎者《いなかもの》の自分は、その時生まれて始めてヴァイオリンという楽器を実見し、始めて、その特殊な音色を聞いたのであった。これは物理教室所蔵の教授用標本としての楽器であったのである。それから自分は、全く子供のように急にこの珍しい楽器のおもちゃがほしくなったものである。そうして月々十一円ずつ郷里からもらっている学費のうちからひどい工面《くめん》をして定価九円のヴァイオリンを買うに至るまでのいきさつがあったのであるが、これは先生に関係のない余談であるからここには略する。とにかく自分がこの楽器をいじるようになったそもそもの動機は田丸先生に「点をもらい」に行った日に発生したのである。ずっと後に先生が留学から帰って東京に住まわれるようになってから、ある時期の間は、ずいぶん頻繁《ひんぱん》に先生のお宅へ押しかけて行って先生のピアノの伴奏で自己流の演奏、しかもファースト・ポジションばかりの名曲弾奏を試みたのであったが、これには上記のような古い因縁があったのである。
 高等学校における田丸先生の物理も実に理想的の名講義であったと思う。後に理科大学物理学科の課目として教わったものが「物理学」だとすると、その基礎になるべき「物理そのもの」とでもいったようなものを、高等学校在学中に田丸先生からみっしり教わったというような気がする。この時に教わったものが、今日に至るまで実に頭にしみ込み実によく役に立ち、そうしていつでも自分の中で生きてはたらいているのを感ずる。高等学校の物理は実にだいじだと思う。
 そのころ先生は時々物理の宿題を出して生徒一同から答案を徴し、そうしてそれを詳しく調べた上で一同を集めておいてその答案に対する丁寧な講評をされた。その宿題を解くのが自分には実に楽しみであった。いつか「月蝕《げっしょく》のときに、地球の半陰影《ペナンブラ》が見えないのはなぜか」という問題が出た時、いろいろ考えたがよくわからず、結局何かだいぶ無理なこじつけを書いて出した。さて、その講評の日に、順次に他の問題について説明された後に、この半陰影の問題に移った。「諸君の中にこういうことを書いた人がある」と言って、自分の提出した答案の所説を述べ、「これは、なかなかうまい説明であると思う。が」と言ってちらりと自分のほうを見ながら、にこにこして「しかし、惜しい事には……」と言ってその似而非《えせ》説明《せつめい》の大きなごまかしの穴を指摘しておいて、さて、丁寧に先生の本物の説明を展開するのであった。自分はすっかり赤面し恐縮してしまった。三十余年後の今日でもはっきりその時の事を覚えているくらい恥ずかしかったのである。先生もなかなか人の悪いところがあったという気がする。もっとも相手はやっと二十歳の子供であったのだから、ちょっとからかってみる気にもなられたものであろう。
 先生に三角を教わり力学を教わったために、始めて数学というものがおもしろいものだということが少しばかりわかって来た。中学で教わった数学は、三角でも代数でも、いったいどこがおもしろいのかちっともわからなかったが、田丸先生に教わってみると中学で習ったものとはまるでちがったもののように思われて来た。先生に言わ
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