、もう大部分は忘れてしまったが、夢のような記憶の中を捜すとこんな事が出て来る。
やはり農家の暇な時季を選んだものだろう。儀式は刈り株の残った冬田の上で行なわれた。そこに神輿《みこし》が渡御になる。それに従う村じゅうの家々の代表者はみんな裃《かみしも》を着て、傘《からかさ》ほどに大きな菅笠《すげがさ》のようなものをかぶっていた。そして左の手に小さな鉦《しょう》をさげて右の手に持った木づちでそれをたたく。単調な声でゆるやかな拍子で「ナーンモーンデー」と唱えると鉦の音がこれを請けて「カーンコ、カンコ」と響くのである。どういう意味だかわからない。ある人は「南門殿還幸」を意味すると言っていたがそれはあまり当てにはならない。私はむしろ意味のわからないほうがいいような気がしていた。
神輿の前で相撲《すもう》がある。しかしそれは相撲をとる[#「とる」に傍点]のではなくて、相撲を取らない[#「取らない」に傍点]のである。美々しい回しをつけた力士が堂々としてにらみ合っていざ組もうとすると、衛士《えじ》だか行司だかが飛び出して来て引き分け引き止める。そういう事がなんべんとなく繰り返される。そして結局相撲は取らないでおしまいになるのである。どういう由緒《ゆいしょ》から起こった行事だか私は知らない。それにもかかわらずそれを見る人の心は遠い昔に起こったある何かしらかなり深刻な事件のかすかな反響のようなものを感ずる。
そのほか「棒使い」と言って、神前で紅白の布を巻いた棒を振り回す儀式もあったが、詳しい事はもうよくは覚えていない。
文明の波が潮のように片田舎《かたいなか》にも押し寄せて来て、固有の文化のなごりはたいてい流してしまった。「ナーンモーンデー」の儀式もいつのまにか廃止された。学校へ行って文明を教わっている村の青年たちには、裃《かみしも》をつけて菅笠《すげがさ》をかむって、無意味なような「ナーンモーンデー」を唱える事は、堪え難い屈辱であり、自己を野蛮化する所行のように思われたのである。これは無理のない事である。
簡単な言葉と理屈で手早くだれにもわかるように説明のできる事ばかりが、文明の陳列棚《ちんれつだな》の上に美々しく並べられた。そうでないものは塵塚《ちりづか》に捨てられ、存在をさえ否定された。それと共に無意味の中に潜んだ重大な意味の可能性は葬られてしまうのである。幾千年来伝わった民族固有の文化の中から常に新しいものを取り出して、新しくそれを展開させる人はどこにもなかった。「改造」という叫び声は、内にあるもののエヴォリューションではなくて、木に竹をつぐような意味にのみもてはやされた。それであの親切な情誼《じょうぎ》の厚い田舎の人たちは切っても切れぬ祖先の魂と影とを弊履のごとく捨ててしまった。そうして自分とは縁のない遠い異国の歴史と背景が産み出した新思想を輸入している。伝来の家や田畑を売り払って株式に手を出すと同じ行き方である。
新思想の本元の西洋へ行って見ると、かえって日本人の目にばかばかしく見えるような大昔の習俗や行事がそのままに行なわれているのはむしろ不思議である。
これはどちらがいいか、議論をするとわからなくなるにきまっている。
ただこのごろの新聞紙上をにぎわすようないろいろの不祥な社会的現象は、それが大本教事件《おおもときょうじけん》でも宝塚事件《たからづかじけん》でも、すべてが直接これらの事件とはなんの関係もない南海の村落でこの「ナンモンデー」の廃止された事とどこかで連関していて、むしろそれの当然の帰結であるような気がする。
そうした田舎《いなか》の塵塚《ちりづか》に朽ちかかっている祖先の遺物の中から新しい生命の種子を拾い出す事が、為政者や思想家の当面の仕事ではあるまいかという気もする。
[#地から3字上げ](大正十年七月、中央公論)
底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
1997(平成9)年12月15日第81刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月20日作成
2003年7月24日修正
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