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には萌え出る生命の暗示を含むと同時に何處となく春の淋しさがにじんである。細みがあつて、しかも弱からず、しをりがあつてしかも感傷に陷らないのである。いくらでも作れさうで中々作れない句であらう。
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市中は物のにほひや夏の月     凡兆
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 夏の晴れた宵の無風状態を「物の匂ひ」で描いたものである。月は銅色をして居て、町から町へ架け渡した橋の下には堀河の淀みがあるであらう。
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あれ/\て末は海行野分哉     猿雖
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 七百三十ミリメーターの颱風中心は本邦を斜斷して大平洋へ拔けた。濱邊に打上げられた藻屑の匂を感じ、ひやひやと肌に迫る汐霧を感じるであらう。
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だまされし星の光や小夜時雨     羽紅
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 見方によつては厭味[#「厭味」は底本では「壓味」]な所謂月並にもなり得るであらうが、時雨といふ現象の特徴をよく現はしたもので、氣象學教科書に引用し得るものであらう。古人の句には往々かういふ科學的の眞實を含んだ句があつて、理科教育を受けた今の人のに、そのわりに少ないやうに思はれるのも不思議である。昔の人は文部省流の理科を教はらないで、自分の眼で自然を見たのである。
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灰色の雲垂れかゝる枯野哉     漱石
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 此れも極めて平易なやうで、しかも雪空の如實な描寫であり、一幅の淡彩畫である。描寫の祕密は中七字にある。所謂|落下縞《ファルストライフェン》を寫生したものである。

 發句でない連句中の附句の中には、天文の季題そのものを描寫した句で佳句が甚だ多いやうである。此れには理由のあることである。畢竟、附句は隣の句との取合せによつて一つの全體をなすものであるから、句自身の中での色々な取合せをさけるからであらう。併し此處ではそれに就いて述べるべき餘白がない。

 要するに此處で所謂「天文」の季題は俳句の第一要素たる「時」を決定すると同時に「天と地の間」の空間を暗示することによつて、或は廣大な景色の描寫となり、或は他の景物の背景となる。子規が天文地理の季題が壯大なことを詠ずるに適して居ると云つたのも所由のあることである。動物や植物の季題で空間的背景を暗示することは一般には困難であらうと思はれる。
 限られた紙數の爲に、擧げたいと思ふ多數の作例佳句を悉く割愛しなければならなかつたのは遺憾であるが止むを得ない次第である。
[#地から1字上げ](昭和七年八月 俳句講座)



底本:「科學と文學」角川書店
   1948(昭和23)年12月25日初版発行
   1949(昭和24)年9月20日3版発行
※底本の「「發句は…下手といふなり「」を、「「發句は…下手といふなり」」に改めました。
入力:内田明
校正:hongming
2003年11月7日作成
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