れる泥炭地《でいたんち》や砂地や、さもなければはげた岩山の多いのに驚いたことであったが、また一方で自然の厳父の威厳の物足りなさも感ぜられた。地震も台風も知らない国がたくさんあった。自然を恐れることなしに自然を克服しようとする科学の発達には真に格好の地盤であろうと思われたのである。
こうして発達した西欧科学の成果を、なんの骨折りもなくそっくり継承した日本人が、もしも日本の自然の特異性を深く認識し自覚した上でこの利器を適当に利用することを学び、そうしてたださえ豊富な天恵をいっそう有利に享有すると同時にわが国に特異な天変地異の災禍を軽減し回避するように努力すれば、おそらく世界じゅうでわが国ほど都合よくできている国はまれであろうと思われるのである。しかるに現代の日本ではただ天恵の享楽にのみ夢中になって天災の回避のほうを全然忘れているように見えるのはまことに惜しむべきことと思われる。
以上きわめて概括的に日本の自然の特異性について考察したつもりである。それで次にかくのごとき自然にいだかれた日本人がその環境に応じていかなる生活様式をとって来たかということを考えてみたいと思う。
日本人の日常生活
まず衣食住の中でもいちばんだいじな食物のことから考えてみよう。
太古の先住民族や渡来民族は多く魚貝や鳥獣の肉を常食としていたかもしれない。いつの時代にか南洋またはシナからいろいろな農法が伝わり、一方ではまた肉食を忌む仏教の伝播《でんぱ》とともに菜食が発達し、いつとなく米穀が主食物となったのではないかというのはだれにも想像されることである。しかしそうした農業がわが国の風土にそのまま適していたか、少なくも次第に順応しつつ発達しうるものであったということがさらに根本的な理由であることを忘れてはならない。
「さかな」の「な」は菜でもあり魚でもある。副食物は主として魚貝と野菜である。これはこの二つのものの種類と数量の豊富なことから来る自然の結果であろう。またそれらのものの比較的新鮮なものが手に入りやすいこと、あるいは手に入りやすいような所に主要な人口が分布されたこと、その事実の結果が食物の調理法に特殊な影響を及ぼしているかと思われる。よけいな調味で本来の味を掩蔽《えんぺい》するような無用の手数をかけないで、その新鮮な材料本来の美味を、それに含まれた貴重なビタミンとともに、そこなわれない自然のままで摂取するほうがいちばん快適有効であることを知っているのである。
中央アジアの旅行中シナの大官からごちそうになったある西洋人の紀行中の記事に、数十種を算する献立のどれもこれもみんな一様な黴《かび》のにおいで統括されていた、といったようなことを書いている。
もう一つ日本人の常食に現われた特性と思われるのは、食物の季節性という点に関してであろう。俳諧歳時記《はいかいさいじき》を繰ってみてもわかるように季節に応ずる食用の野菜魚貝の年週期的循環がそれだけでも日本人の日常生活を多彩にしている。年じゅう同じように貯蔵した馬鈴薯《ばれいしょ》や玉ねぎをかじり、干物塩物や、季節にかまわず豚や牛ばかり食っている西洋人やシナ人、あるいはほとんど年じゅう同じような果実を食っている熱帯の住民と、「はしり」を喜び「しゅん」を貴《たっと》ぶ日本人とはこうした点でもかなりちがった日常生活の内容をもっている。このちがいは決してそれだけでは済まない種類のちがいである。
衣服についてもいろいろなことが考えられる。菜食が発達したとほぼ同様な理由から植物性の麻布綿布が主要な資料になり、毛皮や毛織りが輸入品になった。綿布麻布が日本の気候に適していることもやはり事実であろうと思われる。養蚕が輸入されそれがちょうどよく風土に適したために、後には絹布が輸出品になったのである。
衣服の様式は少なからずシナの影響を受けながらもやはり固有の気候風土とそれに準ずる生活様式に支配されて固有の発達と分化を遂げて来た。近代では洋服が普及されたが、固有な和服が跡を絶つ日はちょっと考えられない。たとえば冬湿夏乾の西欧に発達した洋服が、反対に冬乾夏湿の日本の気候においても和服に比べて、その生理的効果がすぐれているかどうかは科学的研究を経た上でなければにわかに決定することができない。しかし、日本へ来ている西洋人が夏は好んで浴衣《ゆかた》を着たり、ワイシャツ一つで軽井沢《かるいざわ》の町を歩いたりすることだけを考えても、和服が決して不合理なものばかりでないということの証拠がほかにもいろいろ捜せば見つかりそうに思われる。しかしおかしい事には日本の学者でまだ日本服の気候学的物理的生理的の意義を充分詳細に研究し尽くした人のあることを聞かないようである。これは私の寡聞のせいばかりではないらしい。そういう事を研究するこ
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