装置を展開してやがてその前に演出さるべき主観の活躍に適当な環境を組み立てるという役目をするのではないかと思われる。換言すればある特殊な雰囲気《ふんいき》をよび出すための呪文《じゅもん》のような効果を示すのではないかと思われる。しかし、この呪文は日本人のごとき特異な自然観の所有者に対してのみ有効な呪文である。自然を論理的科学的な立場から見ることのみを知ってそれ以外の見方をすることの可能性に心づかない民族にとっては、それは全くのナンセンスであり悪趣味でさえもありうるのである。
こんなことを考えただけでも、和歌を外国語に翻訳しただけで外国人に味わわせようという試みがいかに望み少ないものであるかを了解することができるであろう。また季題なしの新俳句を製造しようとするような運動がいかに人工的なものであるかを悟ることができるであろうと思われる。
日本人の特異な自然観の特異性をある一方面に分化させ、その方向に異常な発達を遂げさせたものは一般民衆の間における俳諧発句《はいかいほっく》の流行であったと思われる。かえってずっと古い昔には民衆的であったかと思われる短歌が中葉から次第に宮廷人の知的遊戯の具となりあるいは僧侶《そうりょ》の遁世哲学《とんせいてつがく》を諷詠《ふうえい》するに格好な詩形を提供していたりしたのが、後に連歌という形式から一転して次第にそうした階級的の束縛を脱しいわゆる俳諧から発句に進化したために著しくその活躍する世界を拡張して詩材の摂取範囲を豊富にした。それと同時にまた古来の詩人によって養われ造り上げられて来た日本固有の自然観を広く一般民衆の間に伝播《でんぱ》するという効果を生じたであろうと想像される。俳句を研究してある程度まで理解しているあるフランス人に言わせると日本人は一人残らずみんな詩人であるという。これは単に俳句の詩形が短くてだれでもまねやすいためであり、単にそれだけであると思ってはならない。そういう詩形を可能ならしめる重大な原理がまさに日本人の自然観の特異性の中に存し、その上に立脚しているという根本的な事実を見のがしてはならない。そういう特異な自然観が国民全体の間にしみ渡っているという必須条件《ひっすじょうけん》が立派に満足されているという事実を忘却してはならないのである。
短歌や俳句が使い古したものであるからというだけの単純な理由からその詩形の破棄を
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