ればもはやすべての事がらは統計的、蓋然的《がいぜんてき》な平均とその変異との問題にほごされてしまう。のみならず今日ではその統計的知識にさえもある不可超限界が置かれようとしているのである。さてこのような時代にわれわれが物理的統計学についてはたしてどれだけの知識を持っているかというと、これも見方によっては実に貧弱な知識しかもっていない。いわゆる古典的統計法が原子物理学の大海に難破して、これに代わる新しい統計が発明されても、それとこれとの関係もそれぞれの意味もなかなかのみ込めない。それは別問題としたところで、私の眼前のガラスの水滴の合流をいかに統計的に取り扱ったらよいかと思って諸文献を渉猟してみても結局得るところははなはだ少ないのである。それは私が結局何物もないところに何物かを求めているためであろうか。それがそうではない証拠にはちゃんと眼前の事象が存在している。すなわち事象は決してめちゃくちゃには起こっていない。ただわれわれがまだその方則を把握《はあく》し記載し説明し得ないだけである。
 私が宅《うち》の洗面所で日常に当面する物理学上の諸問題はまだこのほかにもいくつかある。たとえば湯の温度によって湯げの立ち上がる様子がちがうので、その湯げの立ち方で温度のおおよその見当がつく。これには対流による渦動《かどう》の問題がある。また半ば満たした金だらいの中央にコップの水を注入する時に水面に菊花状の隆起を生じる事がある。これもまた渦動の一問題であるらしい。また半球形の湯飲み茶わんに突然水を放射すると水は器壁に沿うて走り上り、縁から外に傘状《からかさじょう》に広がる、そうしていつまでたっても茶わんには水が満たされない。これについても流体運動の一問題として追究すべき事がらはいくらもある。そうして、これらの問題はいずれも工学上のみならず気象学や海洋学上の重要な諸問題とかなり密接につながっていることはおそらく説明するまでもないことであろう。それにもかかわらず、これら眼前の問題に対していくらかでも知識を得たいと思ってライブラリーを渉猟しても満足な答解を与えてくれるものはまれである。そうかと言ってみずからこれらの多くの問題のどれもに手を着けることは到底不可能である。それで私が今本誌の貴重な紙面をかりてここにこれらの問題を提出することによって、万一にも、好学な読者のだれかがこの中の一つでもを取り上げて、たとえわずかな一歩をでも進めてくれるという機縁を作ることができたら、その結果は単に私の喜びだけにはとどまらないであろうと思うのである。
[#地から3字上げ](昭和六年四月、科学)



底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第64刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
※「田口※[#「さんずい+卯」、第4水準2−78−35]三郎」対する底本のルビ、「たぐちうさぶろう」は「たぐちりゅうざぶろう」にあらためました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2003年10月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング