と聞くと、ないと答える。見るとちゃんと眼前の棚《たな》にその本が収まっている事がある。そういうときにわれわれははなはださびしい気持ちを味わう。商人が自分の商品に興味と熱を失う時代は、やがて官吏が職務を忘却し、学者が学問に倦怠《けんたい》し、職人が仕事をごまかす時代でありはしないかという気がすることもある。しかし考巧忠実な店員に接し掌《たなごころ》をさすように求める品物に関する光明を授けられると悲観が楽観に早変わりをする。現代の日本がやはりたのもしく見えて来ると同時に眼前の書籍を知らぬ小店員を気の毒に思うのである。
 ドイツのある書店に或《あ》る書物を注文したらまもなく手紙をよこして、その本はアメリカの某博物館で出版した非売品であるが、御希望ゆえさし上げるように同博物館へ掛け合ってやったからまもなく届くであろうと通知して来た。そうしてまもなくそれが手もとに届いたのであった。ありがたくもあればまたドイツ人は恐ろしいとも思った。これが日本の書店だと三月も待った後に御注文の書籍は非売品の由につきさよう御承知くだされたしという一枚のはがきを受け取るのではなかったかと想像する。間違ったらゆるしてもらいたい。そう想像させるだけの因縁はあるのである。
 書店にはなるべく借金をたくさんにこしらえるほうがいいという話を聞いて感心したことがある。正直に月々ちゃんと払いをすませるような顧客は、考えてみると本屋でもてなくてもよいわけであった。それでバックナンバーでも注文する時はその前に少なくも五六百円の借金をこしらえておくほうが有効であるかもしれない。これは近ごろの発見であるような気がした。
 将来書物がいっさい不用になる時代が来るであろうか。英国の空想小説家は何百年間眠り続けた後に目をさました男の体験を描いているうちにその時代のライブラリーの事を述べている。すなわち、書物の代わりに活動のフィルムの巻物のようなものができていて文字を読まなくても万事がことごとくわかることになっている。しかしこれは少し書物というものの本質を誤解した見当ちがいの空想であると思われる。
 それにしても映画フィルムがだんだんに書物の領分を侵略して来る事はたしかである。おそらく近い将来においていろいろのフィルムが書店の商品の一部となって出現するときが来るのではないか。もしも安直なトーキーの器械やフィルムが書店に出るようになれば教育器械としてのプロフェッサーなどはだいぶ暇になることであろう。
 今からでも大書店で十六ミリフィルムを売り出してもよくはないか。そうして小さな試写室を設けて客足をひくのも一案ではないかと思われるのである。近ごろ写真ばかりの本のはやるのはもうこの方向への第一歩とも見られる。
 読みたい本、読まなければならない本があまり多い。みんな読むには一生がいくつあっても足りない。また、もしかみんな読んだら頭はからっぽになるであろう。頭をからっぽにする最良法は読書だからである。それで日下部《くさかべ》氏のいわゆる少なく読む、その少数の書物にどうしたらめぐり会えるか。これも親のかたきのようなもので、私の尋ねる敵《かたき》と他の人の敵とは別人であるように私の書物は私が尋ねるよりほかに道はない。
 ある天才生物学者があった。山を歩いていてすべってころんで尻《しり》もちをついた拍子に、一握りの草をつかんだと思ったら、その草はいまだかつて知られざる新種であった。そういう事がたびたびあったというのである。読書の上手《じょうず》な人にもどうもこれに類した不思議なことがありそうに思われる。のんきに書店の棚《たな》を見てあるくうちに時々気まぐれに手を延ばして引っぱりだす書物が偶然にもその人にとって最も必要な本であるというようなことになるのではないか。そういうぐあいに行けるものならさぞ都合がいいであろう。
 一冊の書物を読むにしても、ページをパラパラと繰るうちに、自分の緊要なことだけがページから飛び出して目の中へ飛び込んでくれたら、いっそう都合がいいであろう。これはあまりに虫のよすぎる注文であるが、ある度までは練習によってそれに似たことはできるもののようである。実際何十巻ものエンチクロペディーやハンドブックを通読できるわけのものではないのである。
 間違いだらけで恐ろしく有益な本もあれば、どこも間違いがなくてそうしてただ間違っていないというだけの事以外になんの取り柄もないと思われる本もある。これほど立派な材料をこれほど豊富に寄せ集めて、そうしてよくもこれほどまでにおもしろくなくつまらなく書いたものだと思う本もある。
 翻訳書を見ていると時におもしろいことがある。訳文の意味がどうしてもわからない場合に、それを一ぺん原語に直訳して考えてみるとなるほどと合点《がてん》が行って思わず笑い出すことがある。たとえば「礼服を着ないでサラダを出した」といったような種類のものである。
 先端的なものの流行《はや》る世の中で古いものを読むのも気が変わってかえって新鮮味を感じるから不思議である。近ごろ「ダフニスとクロエ」の恋物語を読んでそういう気がするのであった。今のモボ、モガよりもはるかに先端的な恋をしているのである。アリストファーネスの「雲」を読んで学者たちが蚤《のみ》の一躍は蚤の何歩に当たるかを論ずるところなどが、今の学者とちっとも変わらない生き写しであることをおもしろいと思うのであった。「六国史《りっこくし》」を読んでいると現代に起こっていると全く同じことがただ少しばかりちがった名前の着物を着て古い昔に起こっていたことを知ってあるいは悲観しあるいは楽観するのである。だんだん読んでいると、古い事ほど新しく、いちばん古いことが結局いちばん新しいような気がして来るのも、不思議である。古典が続々新版になる一方では新思想ものが露店からくずかごに移されて行くのも不思議である。
 それにしても日々に増して行く書籍の将来はどうなるであろうか。毎日の新聞広告だけから推算しても一年間に現われる書物の数は数千あるいは万をもって数えるであろう。そうしてその増加率は年とともに増すとすれば遠からず地殻《ちかく》は書物の荷重に堪えかねて破壊し、大地震を起こして復讐《ふくしゅう》を企てるかもしれない。そういう際にはセリュローズばかりでできた書籍は哀れな末路を遂げて、かえって石に刻した楔形文字《くさびがたもじ》が生き残るかもしれない。そうでなくとも、また暴虐な征服者の一炬《いっきょ》によって灰にならなくとも、自然の誤りなき化学作用はいつかは確実に現在の書物のセリュローズをぼろぼろに分解してしまうであろう。
 十年来むし込んでおいた和本を取り出してみたら全部が虫のコロニーとなって無数のトンネルが三次元的に貫通していた。はたき集めた虫を庭へほうり出すとすずめが来て食ってしまった。書物を読んで利口になるものなら、このすずめもさだめて利口なすずめになったことであろう。
[#地から3字上げ](昭和七年一月、東京日日新聞)



底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第64刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年4月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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