て、今でも自分を脅かすのである。そのころ福沢翁《ふくざわおう》の著わした「世界国づくし」という和装木版刷りの書物があった。全体が七五調の歌謡体になっているので暗記しやすかった。そのさし絵の木版画に現われた西洋風景はおそらく自分の幼い頭にエキゾチズムの最初の種子を植え付けたものであったらしい。テヘラン、イスパハンといったようないわゆる近東の天地がその時分から自分の好奇心をそそった、その惰性が今日まで消えないで残っているのは恐ろしいものである。「団々珍聞《まるまるちんぶん》」という「ポンチ」のまねをしたもののあったのもそのころである。月給鳥という鳥の漫画には「この鳥はモネーモネーと鳴く」としたのがあったのを覚えている。官権党対自由党の時代であったのである。今のブル対プロに当たるであろう。歴史は繰り返すのである。
「諸学須知《しょがくしゅち》」「物理階梯《ぶつりかいてい》」などが科学への最初の興味を注入してくれた。「地理初歩」という薄っぺらな本を夜学で教わった。その夜学というのが当時盛んであった政社の一つであったので、時々そういう社の示威運動のようなものが行なわれ、おおぜいで提灯《ちょうちん》をつけて夜の町を駆けまわり、また時々は南磧《みなみがわら》で繩奪《なわうば》い旗奪いの競技が行なわれた。ある時はある社の若者が申し合わせて一同頭をクリクリ坊主にそり落として市中を練り歩いたこともあった。
 宅《うち》の長屋に重兵衛《じゅうべえ》さんの家族がいてその長男の楠《くす》さんというのが裁判所の書記をつとめていた。その人から英語を教わった。ウィルソンかだれかの読本を教わっていたが、楠さんはたぶん奨励の目的で将来の教案を立てて見せてくれた。パーレー万国史、クヮッケンボス文典などという書名を連ねた紙片に過ぎなかったが、それが恐ろしく幼い野心を燃え立たせた。いよいよパーレーを買いに行ったとき本屋の番頭に「たいそうお進みでございますねえ」といわれてひどくうれしがったものである。その時の幼稚な虚栄心の満足が自分の将来の道を決定するいろいろな因子の中の一つになったかもしれないという気がする。この楠さんはまたゲーテの「狐《きつね》の裁判」の翻訳書を貸してくれた人である。「漢楚軍談《かんそぐんだん》」「三国志《さんごくし》」「真田三代記《さなださんだいき》」の愛読者であったところの明治二十年ごろの田舎《いなか》の子供にこのライネケフックスのおとぎ話はけだし天啓の稲妻であった。可能の世界の限界が急に膨張して爆発してしまったようなものであったに相違ない。
 やはりそのころ近所の年上の青年に仏語を教わろうとしたことがある。「レクチュール」という読本のいちばん初めの二三行を教わったが、父から抗議が出てやめてしまった。英語がまだ初歩なのに仏語をちゃんぽんに教わっては不利益だという理由であったが、実際はその教師となるべき青年が近隣で不良の二字をかぶらせた青年であるがためだということが後にわかって来た。思うにかれは当時の新思想の持ち主であったのである。それから十年の後高等学校在学中に熊本《くまもと》の通町《とおりまち》の古本屋で仏語読本に鉛筆ですきまなしにかなの書き入れをしたのを見つけて来て独習をはじめた。抑圧された願望がめざめたのである。子供に勉強させるには片端から読み物に干渉して良書をなるべく見せないようにするのも一つの方法であるかもしれない。そうして読んでいけないと思う種類の書物を山積して毎日の日課として何十ページずつか読むように命令するのも一法であるかもしれない。
 楠《くす》さんも、この不良と目された不幸な青年も夭死《ようし》してとくの昔になくなったが、自分の思い出の中には二人の使徒のように頭上に光環をいただいて相並んで立っているのである。この二人は自分の幼い心に翼を取りつけてくれた恩人であった。
 楠さんの弟の亀《かめ》さんはハゴを仕掛けて鳥を捕えたり、いろいろの方法でうなぎを取ったりすることの天才であった。この亀さんから自分は自然界の神秘についていかなる書物にも書いてない多くのものを学ぶことができた。
 中学時代の初期には「椿説弓張月《ちんせつゆみはりづき》」や「八犬伝《はっけんでん》」などを読んだ。田舎《いなか》の親戚《しんせき》へ泊まっている間に「梅暦《うめごよみ》」をところどころ拾い読みした記憶がある。これらの読み物は自分の五体の細胞の一つずつに潜在していた伝統的日本人をよびさまし明るみへ引き出すに有効であった。「絵本西遊記《えほんさいゆうき》」を読んだのもそのころであったが、これはファンタジーの世界と超自然の力への憧憬《どうけい》を挑発《ちょうはつ》するものであった。そういう意味ではそのころに見た松旭斎天一《しょうきょくさいてんいち》の西洋奇術も
前へ 次へ
全7ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング