強度なりが現代のわれわれのそれよりも多大であったことは確かであろう。蘭学《らんがく》の先駆者たちがたった一語の意味を判読し発見するまでに費やした辛苦とそれを発見したときの愉悦とは今から見れば滑稽《こっけい》にも見えるであろうが、また一面には実にうらやましい三昧《ざんまい》の境地でもあった。それに比べて、求める心のないうちから嘴《くちばし》を引き明けて英語、ドイツ語と咽喉仏《のどぼとけ》を押し倒すように詰め込まれる今の学童は実にしあわせなものであり、また考えようではみじめなものでもある。
 子供の時分にやっとの思いで手にすることのできた雑誌は「日本の少年」であった。毎月一回これが東京から郵送されて田舎《いなか》に着くころになると、郵便屋の声を聞くたびに玄関へ飛び出して行ったものである。甥《おい》の家では「文庫」と「少国民」をとっていたのでこれで当時の少青年雑誌は全部見られたようなものである。そうして夜は皆で集まって読んだものの話しくらをするのであった。明治二十年代の田舎の冬の夜はかくしてグリムやアンデルセンでにぎやかにふけて行ったのである。「しり取り」や「化け物カルタ」や「ヤマチチの話」の中に、こういう異国の珍しく美しい物語が次第に入り込んで雑居して行った径路は文化史的の興味があるであろう。今書店の店頭に立っておびただしい少年少女の雑誌を見渡し、あのなまなましい色刷りの表紙をながめる時に今の少年少女をうらやましく思うよりもかえってより多くかわいそうに思うことがある。
 生まれて初めて自分が教わったと思われる書物は、昔の小学読本であって、その最初の文句が「神は天地の主宰にして人は万物の霊なり」というのであった。たぶん、外国の読本の直訳に相違ないのであるが、今考えてみるとその時代としては恐ろしい危険思想を包有した文句であった。先生が一句ずつ読んで聞かせると、生徒はすぐ声をそろえてそれを繰り返したものであるが、意味などはどうでもよかったようである。その読本にあったことで今でも覚えているのは、あひるの卵をかえした牝鶏《めんどり》が、その養い子のひよっこの「水におぼれんことを恐れて」鳴き立てる話と、他郷に流寓《りゅうぐう》して故郷に帰って見ると家がすっかり焼けて灰ばかりになっていた話ぐらいなものである。そうしてこの牝鶏と帰郷者との二つの悪夢はその後何十年の自分の生活に付きまとっ
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