も確実である。このことはわれわれにいろいろな問題を暗示し、またいろいろの実験的研究を示唆する。もしも植物学者と物理学者と共同して研究することができたら案外おもしろいことにならないとも限らないと思うのである。
 これとはまた全く縁もゆかりもない話ではあるが、先日|宅《うち》の子供が階段から落ちてけがをした。それで、近所の医師のM博士に来てもらったら、ちょうど同じ日にM氏の子供が学校の帰りに道路でころんで鼻頭をすりむきおまけに鼻血を出したという事であった。それから二三日たってから、宅の他の子供がデパートでハンドバッグを掏摸《すり》にすられた。そうして電車停留場の安全地帯に立っていたら、通りかかったトラックの荷物を引っ掛けられて上着にかぎ裂きをこしらえた。その同じ日に宅の女中が電車の中へだいじの包みを置き忘れて来たのである。これらは現在の科学の立場から見ればまるで問題にもなにもならないことで、全く偶然といってしまうよりほかはないことである。しかし、これが偶然であると言えば、銀杏《いちょう》の落葉もやはり偶然であり、藤豆《ふじまめ》のはじけるのも偶然であるのかもしれない。またこれらが偶然でないとすれば、前記の人事も全くの偶然ではないかもしれないと思われる。少なくも、宅《うち》に取り込み事のある場合に家内の人々の精神状態が平常といくらかちがうことは可能であろう。
 年末から新年へかけて新聞紙でよく名士の訃音《ふいん》が頻繁《ひんぱん》に報ぜられることがある。インフルエンザの流行している時だと、それが簡単に説明されるような気のすることもある。しかしそう簡単に説明されない場合もある。
 四五月ごろ全国の各所でほとんど同時に山火事が突発する事がある。一日のうちに九州から奥羽《おうう》へかけて十数か所に山火事の起こる事は決して珍しくない。こういう場合は、たいてい顕著な不連続線が日本海から太平洋へ向かって進行の途中に本州島弧を通過する場合であることは、統計的研究の結果から明らかになったことである。「日が悪い」という漠然《ばくぜん》とした「説明」が、この場合には立派に科学的の言葉で置き換えられるのである。
 人間がけがをしたり、遺失物をしたり、病気が亢進《こうしん》したり、あるいは飛行機がおちたり汽車が衝突したりする「悪日」や「さんりんぼう」も、現在の科学から見れば、単なる迷信であっても、未来のいつかの科学ではそれが立派に「説明」されることにならないとも限らない。少なくもそうはならないという証明も今のところなかなかむつかしいようである。
[#地から3字上げ](昭和八年二月、鉄塔)



底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:田辺浩昭
校正:かとうかおり
1999年11月17日公開
2003年10月22日修正
青空文庫作成ファイル:
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