れることのうちで私が好ましいと思う一つのものは、あらゆる「自然の音」のレコードである。たとえば山里の夜明けに聞こえるような鶏犬の声に和する谷川の音、あるいは浜べの夕やみに響く波の音の絶え間をつなぐ船歌の声、そういう種類のものの忠実なるレコードができたとすれば、塵《ちり》の都に住んで雑事に忙殺されているような人が僅少《きんしょう》な時間をさいて心を無垢《むく》な自然の境地に遊ばせる事もできようし、長い月日を病床に呻吟《しんぎん》する不幸な人々の神経を有害に刺激する事なしに無聊《ぶりょう》を慰め精神的の治療に資する事もできはしまいか。こういう種類のレコードこそあらゆるレコードの中で最も無害で有益でそして最も深い内容をもったものではあるまいか。もしそういうものができたら、私はそれをあらゆる階級の人にすすめたい。為政家が一国の政治を考究する時、社会経済学者がその学説を組み立てる時、教育者がその教案を作製する時、忘れずに少時このレコードの音に耳を傾けてもらいたい。あらゆる心と肉の労働者もその労働の余暇にこれらの「自然の音」に親しんでもらいたい。そういう些細《ささい》な事でもその効果は思いのほかに
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