ば、あたかも隣室の音楽を聞いているような心持ちがするので器械の雑音の気になる事がさらによく防がれるだろうと思う。
 もう一つ音楽家にとって不満足であろうと思うのは、たとえ音色がよく再現できていると言ったところで、これをほんとうの楽器に比べればどうしてもいくぶんの差違のある事は免れ難い事である。いろいろな音の相対的の関係はかなりによく行っていても、全体にかぶさっている濁りあるいは曇りのようなものがあってそれが気になるだろうと思われる。しかしこれはたとえば同一の絵を少し暗い室で見るとか、あるいは少し色のついた光の下で見るとよく似た事であって、正常の光で見た時の印象が確実に残っていない人にとってはその区別は全然認識されない。もしそうでなかったら曇り日に見たセザンヌと晴天に見たセザンヌは別物に見えなければならないわけである。同じようなわけで八畳の日本室で聞くヴァイオリンと、広い演奏室で聞く同じひき手の同じヴァイオリンとも別物でなければならない。
 不完全なる蓄音機から本物の音楽を聞き出そうとする人にとってもう一つの助けになるのは人間心理の特徴として知られた補足作用である。自分の文章の校正刷りを
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