かいたりして説明する必要のある講義でも、もし蓄音機と活動写真との連結が早晩もう少し完成すれば、それで代理をさせれば教師は宅《うち》で寝ているかあるいは研究室で勉強していてもいい事になりはしまいか、それでも結構なようでもあるがまたそうではなさそうでもある。こういう仮想的の問題を考えてみた時にわれわれは教育というものの根本義に触れるように思う。
私は蓄音機や活動写真器械で置き換え得られるような講義はほんとうの意味の教育的価値のないものだろうと思っている。もし講義の内容が抜け目なく系統的に正確な知識を与えさえすればいいとならば、何も器械の助けを借りるまでもなくその教師の書いた原稿のプリントなり筆記なりを生徒に与えて読ませれば済む場合もあるわけである。甲の講義を乙が述べてもそれでたくさんなわけである。
しかし多くの人が自らその学校生活の経験を振り返って見た時に、思い出に浮かんで来る数々の旧師から得たほんとうにありがたい貴《たっと》い教えと言ったようなものを拾い出してみれば、それは決して書物や筆記帳に残っている文字や図形のようなものではなくて、到底蓄音機などでは再現する事のできない機微なあるものである事に気がつくだろう。
これはおそらくだれでも知っている事であろうが、あまりに教育というものを系統的科学的従って機械的な研究の対象とする場合にややもすれば忘られがちな事である。一度これを忘れればすべての教育は蓄音機や活動写真で代用する事ができるようになると同時に、教育の効果はその場限りの知識の商品切手のようなものになる。生徒の生涯《しょうがい》を貫ぬいてその魂を導き引き立てるような貴いありがたい影響はどこにもなくなるだろう。
十年一日のごとき講義をするといってよく教師を非難する人が往々ある。しかしそれだけの事実では教師の教師たる価値は論ぜられないと思う。講義の内容の外見上の変化が少なくともその講義の中に流れ出る教師の生きた「人」が生徒に働きかけてその学問に対する興味や熱を鼓吹する力が年とともに加わるという場合もあるかもしれない。これに反して年々に新しく書き改め新事実や新学説を追加しても、教師自身が、漸次に後退しつつある場合も考えられない事はない。この二つの場合のどちらが蓄音機のレコードに適するかを一般的概念的に論断するのは困難ではあるまいか。
蓄音機が完成した暁に望み得ら
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