もまだ現在の蓄音機は不完全と言われてもしかたのない状態にある。三色写真が絵画の複製術として物足りないごとく、蓄音機は名曲のすぐれた演奏の再現器として物足りないものである。それだから蓄音機は潔癖な音楽家から軽視されあるいは嫌忌《けんき》されるのもやむを得ない事かもしれない。私はそういう音楽家の潔癖を尊重するものではあるが、それと同時に一般の音楽愛好者が蓄音機を享楽する事をとがめてはならないと思うものである。
 蓄音機でいい音楽を聞くのと、三色版で名画を見るのとはちょっと考えると似ているようで実は少し違ったところがあると思う。私の考えでは、三色版が色彩に対しても不忠実であるのみならず、画面の微妙な光沢や組織に対し全然再現能力のないのに反して、良い蓄音機では音色や強弱の機微な差別が相応に現われ、そして最も重要な要素と考えられる時間関係がかなり厳密に再現される。そういう点で蓄音機のほうがある意味で三色版より進んでいるとも言われる。ただ困る事には今の蓄音機に避くべからざる雑音の混入が、あたかも三色版の面にきたないしみ[#「しみ」に傍点]の散点したと同様であるようにも思われる。しかし人間の耳には不思議な特長があって、目の場合には望まれない選択作用が行なわれる。すなわち雑多な音の中から自分の欲する音だけを抽出して聞き分ける能力を耳はもっている。音楽家が演奏をしている時に風や雨の音、時には自分の打っているキーの不完全な槓杆《てこ》のきしる音ですらも、心がそれに向いていなければ耳には響いても頭には通じない。この驚くべき聴感の能力のおかげで、われわれは喧騒《けんそう》の中に会話を取りかわす事ができ、管弦楽の中からセロやクラリネットや任意の楽器の音を拾い出す事ができる。
 これに反して目のほうでは白色の中から赤や緑を抜き出す事が不可能であり、画面から汚点を除却して見る事はどうしてもできない。
 このような本質的の区別がありはするが、蓄音機のあまりにはなはだしい雑音はやはり耳ざわりには相違ない。しかし一つの曲に修熟してその和音や旋律を記憶して後にそのレコードの音を専心に追跡しあるいは先導して行く場合にはかなりの程度までこの選択ができるように思われる。これは修練によってだれでも自然にできるだろうと思われるが、かつてある学者の試みたように蓄音機から出る音を壁にかけた反射鏡から一度反射させて聞け
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