ら聞こえて来るのが通りすがりに聞かない事はなかった。そういうのは大概「金の逃げ出す音」の種類に属するものであった。しかしそれはこっちで逃げさえすれば追っかけて来ないから始末がよかった。
 蓄音機のラッパというものも私にはあまり気持ちのいいものではなかった。器械全体の大きさに対してなんとなく均衡を失して醜い不安な外観を呈するものである。一寸法師が尨大《ぼうだい》なメガフォーンをさしあげてどなっているような感じがある。これが菊咲き朝顔のように彩色されたのなどになるといっそう恐ろしい物に見えるのである。
 グラモフォーンに対する私の妙な反感がいくらか柔らげられるような機会が来たのは私が三十二の年にドイツへ行っていた時の事である。かの地の大使館員でMという人と知り合いになったがその人がラッパのない、小さな戸棚《とだな》のような形をした上等の蓄音機をもっていた。そしてかの地で聞く機会の多いオペラのアリアや各種器楽のレコードを集めて、それを研究し修練してわびしいひとり居の下宿生活を慰めていた。その人の所で私はいい蓄音機のいいレコードがそれほど恐ろしいものではないという事を初めて知った。しかしそれにしても当時耳にする機会の多かった本物の音楽に比べては到底比較にならない物足りないものだという気がした。曲の構想や旋律を研究し記憶して、次に本物を聞くための準備をするには非常に重宝なものであるとは気がついたが、これを純粋な芸術的享楽の目的物とする気にはどうもなれなかった。
 それで蓄音機と私との交渉はそれきりになってさらに十年の歳月が流れた。
 ある年の十月に私は妻を失った。やがて襲って来た冬はわびしいわが家をさらにわびしいものにした。おおぜいの子供をかかえて家内じゅうの世話をやく心せわしいさびしさのうちに年が暮れて正月になった。年頭の儀式は廃しても春はどこやら春らしくて、突きつまったような心にもいくらかのゆとりができた。三が日過ぎたある日親類へ行ったら座敷に蓄音機が出ていた。正月の客あしらいかたがたどこからか借りて来たので、私が来たら聞かせようと言って待っていたとの事であった。そこでおとぎ歌劇「ドンブラコ」というのを聞かされた。
 この器械はいわゆる無ラッパの小形のもので、音が弱くて騒がしい事はなかったが、音色の再現という点からはあまり完全とは思われず、それに何かものを摩擦するような雑
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