ではあるまいか。
 地震だけを調べるのでは、地震の本体は分りそうもない。

      四 地震の予報

 地震の予報は可能であるかという問題がしばしば提出される。これに対する答は「予報」という言葉の解釈次第でどうでもなる。もし星学者が日蝕を予報すると同じような決定的《デターミニステイク》な意味でいうなら、私は不可能と答えたい。しかし例えば医師が重病患者の死期を予報するような意味においてならばあるいは将来可能であろうと思う。しかし現在の地震学の状態ではそれほどの予報すらも困難であると私は考えている。現在でやや可能と思われるのは統計的の意味における予報である。例えば地球上のある区域内に向う何年の間に約何回内外の地震がありそうであるというような事は、適当な材料を基礎として云っても差支えはないかもしれない。しかし方数十里の地域に起るべき大地震の期日を数年範囲の間に限定して予知し得るだけの科学的根拠が得られるか否かについては私は根本的の疑いを懐《いだ》いているものである。
 しかしこの事についてはかつて『現代之科学』誌上で詳しく論じた事があるから、今更にそれを繰返そうとは思わない。ただ自然現象中には決定的と統計的と二種類の区別がある事に注意を促したい。この二つのものの区別はかなりに本質的なものである。ポアンカレーの言葉を借りて云わば、前者は源因の微分的変化に対して結果の変化がまた微分的である場合に当り、後者は源因の微分的差違が結果に有限の差を生ずる場合である。
 一本の麻縄に漸次に徐々に強力を加えて行く時にその張力が増すに従って、その切断の期待率は増加する。しかしその切断の時間を「精密に」予報する事は六《むつ》かしい、いわんやその場処を予報する事は更に困難である。
 地震の場合は必ずしもこれと類型的ではないが、問題が統計的である事だけは共通である。のみならず麻糸の場合よりはすべての事柄が更に複雑である事は云うまでもない。
 由来物理学者はデターミニストであった。従ってすべての現象を決定的に予報しようと努力して来た。しかし多分子的《マルティモレキュラー》現象に遭遇して止むを得ず統計的の理論を導入した。統計的現象の存在は永久的の事実である。
 決定的あるいは統計的の予報が可能であるとした場合に、その効果如何という事は別問題である。今ここにこのデリケートな問題を論じる事は困難であり、また論じようと思わない。
 要は、予報の問題とは独立に、地球の災害を予防する事にある。想うに、少なくもある地質学的時代においては、起り得べき地震の強さには自ずからな最大限が存在するだろう。これは地殻そのものの構造から期待すべき根拠がある。そうだとすれば、この最大限の地震に対して安全なるべき施設をさえしておけば地震というものはあっても恐ろしいものではなくなるはずである。
 そういう設備の可能性は、少なくも予報の可能性よりは大きいように私には思われる。
 ただもし、百年に一回あるかなしの非常の場合に備えるために、特別の大きな施設を平時に用意するという事が、寿命の短い個人や為政者にとって無意味だと云う人があらば、それはまた全く別の問題になる。そしてこれは実に容易ならぬ問題である。この問題に対する国民や為政者の態度はまたその国家の将来を決定するすべての重大なる問題に対するその態度を覗《うかが》わしむる目標である。[#地から1字上げ](大正十三年五月『大正大震火災誌』)



底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
   1997(平成9)年5月6日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年6月15日作成
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