となるためにはまたひろく知り深く学ばねばならぬのである。上述のガリレー、ニュートンの発見に関する逸話はその実信ずるに足らぬ俗説であるが、しかしこれらの発見をするためにはまた非凡な準備素養を要した事は言うまでもない。ルベリエが海王星を発見したのも、天王星の運動を精細に知りその運動の説明しがたき小不規則を怪しんだからの事である。近年力学物理学を根底より改造する気運を生じたいわゆる相対率の原理のごときも、もし電子の運動に関する実験上の事実が知られなかったならばおそらく今日のごとき進境を示す事もなかったであろう。
 知るにはまた種々多様の知るがある。地球上の物体が地面に向かって落ちる事は三尺の童子もこれを知る。これも知るである。空気の抵抗その他をなくすればほぼ一秒間九・八メートルの加速度をもって落つる事は中等教育を受けた者はともかくも一度物理学教科書に教えられる。しかしこれだけの簡単な方則の意味をほんとうに理解していつでも応用しうる程度までに知る人ははなはだまれである。さらにこの方則を実際に応用するに当たって空気の抵抗がいかなる程度の影響を及ぼすやを知る人はさらに少ない。さらにまた自ら器械を取ってこれを実験し、自然その物から確実の知識を得ようとする人はさらにさらにまた少ないのである。
 古来邦画家は先人の画風を追従するにとどまって新機軸を出す人は誠に寥々《りょうりょう》たる晨星《しんせい》のごときものがあった。これらは皆知って疑わぬ人であったとも言われよう。疑って考えかつ自然について直接の師を求めた者にいたって始めて一新天地を開拓しているの観がある。
 読書もとよりはなはだ必要である、ただ一を読んで十を疑い百を考うる事が必要である。人間の知識を一歩進めんとする者は現在の知識の境界線まで進むを要する事はもちろんである。すでに境界線に立って線外の自然をつかまんとするものは、いたずらに目をふさいで迷想するだけではだめである。目を開いて自然その物を凝視しなければならぬ。これを手に取って右転左転して見なければならぬ。そうして大いに疑わねばならぬ。この際にただ注意すべき事は色めがねをかけて見ない事である。自分が色めがねをかけているかいないかを確かめるためには、さらに翻って既知の自然を省みまた大いに疑わなければならぬ事はもちろんである。
 疑わぬ人ははなはだ多い。|欠[#レ]知《しるをか
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