《しろうと》の楽器を弄《ろう》するのは、云わば、楽譜の中から切れ切れの音を拾い出しては楽器にこすりつけ、たたきつけているようなもので、これは問題にならない。しかし相当な音楽家と云われる人の演奏でも、どうもただ楽器から美しい旋律や和絃を引出しているというだけの感じしかしない場合が多いようである。こういう演奏には、感心はしても、感動し酔わされる事はない。いつでも楽器というものの意識が離れ得ない。
ストウピンがセロを弾いているのを聞いており見ていると、いつの間にか楽器が消えてしまう。演奏者の胸の中に鳴っている音楽が、きわめて自由に何の障害もなく流れ出しているので、楽器はただほんの一つの窓のようなものに過ぎないのである。
五
ヴィオリンをやっていて、始めてセロを手にしてみると、楽器の大きさを感じるのはもちろんであるが、指頭に感じる絃の大きさ、指の開きの広さなどが、かなり不思議な心持を起させる。それで一と月二た月ヴィオリンを手にしないでいた後に、久し振りで取出して持ってみるとそれがいかにも小さくて軽くて、とてももとのヴィオリンだとは思われないのでちょっと驚かされる。一音程に対する指頭間の距離でもまるで指と指とをくっつけなければならないように感じる。
それでヴィオリンをやったり、またセロをやったり、数回繰返しているうちに、だんだんにヴィオリンはヴィオリン、セロはセロの正当な大きさや重さやその他の特徴がはっきり認識されて来るのである。
西洋から帰って銀座通りが狭く低く感じるのも同じような事で別に珍しい事でもないかもしれないが、ともかくも一つの世界に常住しているものが、一度そこをはなれてその外の世界を見る事無しに自分の世界を正当に認識する事のいかに困難であるかという事実の一例にはなると思う。
六
司馬江漢《しばこうかん》の随筆というのを古本屋の店頭で見つけたので、買って来て読んでみた。こういう書物は縁のない方であるが、何か理化学方面に関する掘出物でもあるかと思ったからである。
春信《はるのぶ》の贋物をかいたという事で評判のよくない人ではあるが、随筆を読んでみると色々面白い事が書いてある。ともかくも「頭の自由な人」ではあったらしい。日本人の理化学思想に乏しい事を罵《ののし》ったり、オリジナリティのない事またそれを尊重しない事を誹
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