りの威勢が強くてとてもわれわれの所へは手が回らないかもしれないという説も出た。
こんな話をしているうちにも私の連想は妙なほうへ飛んで、欧州大戦当時に従来ドイツから輸入を仰いでいた薬品や染料が来なくなり、学術上の雑誌や書籍が来なくなって困った事を思い出した。そしてドイツ自身も第一にチリ硝石の供給が断えて困るのを、空気の中の窒素を採って来てどしどし火薬を作り出したあざやかな手ぎわをも思い出した。
そして、どうしてもやはり、家庭でも国民でも「自分のうちの井戸」がなくては安心ができないという結論に落ちて行くのであった。
翌日も水道はよく出なかった。そして新聞を見ると、このあいだできあがったばかりの銀座通りの木煉瓦《もくれんが》が雨で浮き上がって破損したという記事が出ていた。多くの新聞はこれと断水とをいっしょにして市当局の責任を問うような口調を漏らしていた。私はそれらの記事をもっともと思うと同時にまた当局者の心持ちも思ってみた。
水道にせよ木煉瓦にせよ、つまりはそういう構造物の科学的研究がもう少し根本的に行き届いていて、あらゆる可能な障害に対する予防や注意が明白にわかっていて、そして材料の質やその構造の弱点などに関する段階的系統的の検定を経た上でなければ、だれも容認しない事になっていたのならば、おそらくこれほどの事はあるまいと思われる。
長い使用に堪えない間に合わせの器物が市場にはびこり、安全に対する科学的保証の付いていない公共構造物が至るところに存在するとすれば、その責めを負うべきものは必ずしも製造者や当局者ばかりではない。
もしも需要者のほうで粗製品を相手にしなければ、そんなものは自然に影を隠してしまうだろう。そしてごまかしでないほんもの[#「ほんもの」に傍点]が取って代わるに相違ない。
構造物の材料や構造物に対する検査の方法が完成していれば、たちの悪い請負師《うけおいし》でも手を抜くすきがありそうもない。そういう検定方法は切実な要求さえあらばいくらでもできるはずであるのにそれが実際にはできていないとすれば、その責任の半分は無検定のものに信頼する世間にもないとは言われないような気がする。
私が断水の日に経験したいろいろな不便や不愉快の原因をだんだん探って行くと、どうしても今の日本における科学の応用の不徹底であり表面的であるという事に帰着して行くような気がす
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