休みに帰省している間は毎晩のように座敷の縁側に腰をかけて、蒸し暑い夕なぎの夜の茂みから襲ってくる蚊を団扇《うちわ》で追いながら、両親を相手にいろいろの話をした。そのときにいつも目の前の夕やみの庭のまん中に薄白く見えていたのがこの長方形の花崗岩《かこうがん》の飛び石であった。
ことにありあり思い出されるのは同じ縁側に黙って腰をかけていた、当時はまだうら若い浴衣姿《ゆかたすがた》の、今はとくの昔になき妻の事どもである。
飛び石のそばに突兀《とっこつ》としてそびえた楠《くす》の木のこずえに雨気を帯びた大きな星が一ついつもいつもかかっていたような気がするが、それも全くもう夢のような記憶である。そのころのそうした記憶と切っても切れないように結びついているわが父も母も妻も下女も下男も、みんなもう、一人もこの世には残っていないのである。
国展の会場をざっとひと回りして帰りに、もう一ぺんこの「秋庭」の絵の前に立って「若き日の追憶」に暇請《いとまご》いをした。会場を出るとさわやかな初夏の風が上野《うえの》の森の若葉を渡って、今さらのように生きていることの喜びをしみじみと人の胸に吹き込むように思われ
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