の主題になっている紅葉は自分にとってはむしろ非常に珍しいものである。
たぶん自分の中学時代、それもよほど後のほうかと思うころに、父が東京の友人に頼んで「大杯」という種類の楓《かえで》の苗木をたくさんに取り寄せ、それを邸内のあちこちに植えつけた。自分が高等学校入学とともに郷里を離れ、そうして夏休みに帰省して見るたびに、目立ってそれが大きくなっているのであった。しかし肝心のもみじ時にはいつでも国にいないので、ついぞ一度もその霜に飽きた盛りの色を見る機会はなかったのである。大学の二年から三年にあがった夏休みの帰省中に病を得て一年間休学したが、その期間にもずっと須崎《すさき》の浜へ転地していたために紅葉の盛りは見そこなった。冬初めに偶然ちょっと帰宅したときに、もうほとんど散ってしまったあとに、わずかに散り残って暗紅色に縮み上がった紅葉が、庭の木立ちを点綴《てんてつ》しているのを見て、それでもやっぱり美しいと思ったことがあった。それっきり、ついぞ一度も自分の庭の紅葉というものを見たことがなかったのである。それをかれこれ三十年後の今日思いもかけぬ東京の上野《うえの》の美術館の壁面にかかった額縁の中に見いだしたわけである。
生まれる前に別れたわが子に三十年後にはじめてめぐり会った人があったとしたら、どんな心持ちがするものか、それは想像はできないが、それといくらか似たものではないかと思われるような不思議な心持ちをいだいてこの絵の前に立ち尽くすのであった。
次男が生まれて四十日目に西洋へ留学に出かけ、二年半の後に帰省したときのことである。船が桟橋《さんばし》へ着いたら家族や親類がおおぜい迎えに来ていた。姉が見知らぬ子供をおぶっているから、これはだれかと聞いたらみんなが笑いだした。それが紛れもない自分の子供であったのである。それがそうだと聞かされると同時に三年前の赤ん坊の顔と東京の原町《はらまち》の生活が実に電光のように脳裏にひらめいたのであった。
この絵に対する今の自分の心持ちがやはりいくらかこれに似ている。はじめ見た瞬間にはアイデンチファイすることのできなかった昔のわが家の庭が次第次第に、狂っていたレンズの焦点の合ってくるように歴然と眼前に出現してくるのである。
このただ一枚の飛び石の面にだけでも、ほとんど数え切れない喜怒哀楽さまざまの追憶の場面を映し出すことができる。夏休みに帰省している間は毎晩のように座敷の縁側に腰をかけて、蒸し暑い夕なぎの夜の茂みから襲ってくる蚊を団扇《うちわ》で追いながら、両親を相手にいろいろの話をした。そのときにいつも目の前の夕やみの庭のまん中に薄白く見えていたのがこの長方形の花崗岩《かこうがん》の飛び石であった。
ことにありあり思い出されるのは同じ縁側に黙って腰をかけていた、当時はまだうら若い浴衣姿《ゆかたすがた》の、今はとくの昔になき妻の事どもである。
飛び石のそばに突兀《とっこつ》としてそびえた楠《くす》の木のこずえに雨気を帯びた大きな星が一ついつもいつもかかっていたような気がするが、それも全くもう夢のような記憶である。そのころのそうした記憶と切っても切れないように結びついているわが父も母も妻も下女も下男も、みんなもう、一人もこの世には残っていないのである。
国展の会場をざっとひと回りして帰りに、もう一ぺんこの「秋庭」の絵の前に立って「若き日の追憶」に暇請《いとまご》いをした。会場を出るとさわやかな初夏の風が上野《うえの》の森の若葉を渡って、今さらのように生きていることの喜びをしみじみと人の胸に吹き込むように思われた。去年の若葉がことしの若葉によみがえるように一人の人間の過去はその人の追憶の中にはいつまでも昔のままによみがえって来るのである。しかし自分が死ねば自分の過去も死ぬと同時に全世界の若葉も紅葉も、もう自分には帰って来ない。それでもまだしばらくの間は生き残った肉親の人々の追憶の中にかすかな残像《ナハビルト》のようになって明滅するかもしれない。死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば世界じゅうの芸術は半分以上なくなるかもしれない。自分にしても恥さらしの随筆などは書かないかもしれない。
こんなよしなしごとを考えながら、ぶらぶらと山下《やました》のほうへおりて行くのであった。
[#地から3字上げ](昭和九年六月、心境)
底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月29日作成
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