いくぶんかの運動量を附与しないだろうか。無論私は作家自身の心のアスピレーションと作品の上に現れたそれとを混同していない積りである。努力だけを買うという意味ではないのである。
「樹を描くにしても、画家自身がある度までその樹にならなくてはいけない。」こんな事をエマーソンに云った画家があった。この条件に及第する樹の画があるかと思ってみても「雪」の枯枝などがやはり先ず心に浮かぶ。
見ている自分が「その絵の中に這入《はい》って行ける」ような絵はあるまいか。こう思った時に私は「上井草《かみいぐさ》附近」という絵を想い出した。これに反して大変評判のよかったある二、三の風景画などには、あまりにあらわな眩目的《げんもくてき》な見せつけ場所や、眼を突くような技巧の鉄条網が邪魔になって私にはどうしても絵の中へ踏み込めなかった。これから思うと例えば大雅堂《たいがどう》や高陽《こうよう》などの粗雑なような画が見る人を包み込む魔力を今更のように驚かないではいられない。
それにしても私にはどうして世間から承認された大家の作品の多くのものに共鳴が出来ないだろう。そういう絵の多くは実によく「完成」されている。そして
前へ
次へ
全18ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング