が頭の中に有《も》っている「帝展の心像」を取り出して、それについて何か書き並べるという事がそれほど不都合な事でもないと思った。
去年文展が帝展に変った時には大分色々の批評があった。ある人は面目を一新したと云って多大の希望をかけたようであり、またある人は別段の変りもないと云って落着いていた。前者は相に注目したのであり、後者は本質の事を云ったのであろう。今年も多少の相の変化はあるに相違ない。ある意味では変化し過ぎて[#「し過ぎて」に傍点]困るかもしれない。何らの必然性のない万花鏡《カレードスコープ》のような変化は結局本質の空虚を意味する事にもなるのだが、まさか帝展はそうでもあるまい。
帝展というものに対する私の心像を眺める時に先ず眼につくのはあの竹の台の桜の紅葉で、その次には会場の前に並んだ美々しい自動車の群である。これがあの貧弱な会場の建築と対照して、そしてその中に陳列された美しいものに対するある予感を吹き込む。アリストクラシーないしブールジョアジーと芸術とのある関係を想わせる。この自動車と相対して、おそらく我が日本だけに特有な下足預り所なるものがある。「ステッキはコチラデスヨー」な
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