]んだら歯の欠けそうな林檎《りんご》や、切ったら血のかわりに粘土の出そうな裸体や、夕闇に化けて出そうな樹木や、こういったもの自身[#「自身」に傍点]に対して特別な共鳴を感ずる訳ではない。しかし、もう少しどうにかならないものかと思う時に私の心は自然に作家の胸に接近して行く。そして行手の闇の中にまたたく希望の灯影《ほかげ》といったようなものを作家とともに認めてささやき合うような気がする。
明るく鮮やかであった白馬会時代を回想してみると、近年の洋画界の一面に妙に陰惨などす黒いしかもその中に一種の美しさをもったものの影が拡がって来るのを覚えるのは私ばかりではあるまい。古いドイツやスペインあたりを思わせるような空気が、最も新しい西欧芸術の香と混合してそこに一種のグロテスクに近いものが生れている。同じ事はある派の日本画についても云われる。
ロシアのバレー作家のマッシンがある人の問に答えて、「見玉え。今の世界の大立者《おおだてもの》と云えばみんなグロテスクではないか。例えばカイゼルでもチャップリンでも……」と云ったそうである。それはとにかく、グロテスク美術が自然や文明の脅威から生れるものとすれば
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