眼がさめると台所の土間《どま》の井戸端で虫の声が恐ろしく高く響いているが、傍には母も父も居ない。戸の外で椶櫚《しゅろ》の葉がかさかさと鳴っている。そんなときにこの行燈が忠義な乳母《うば》のように自分の枕元を護っていてくれたものである。
 母が頭から銀の簪《かんざし》をぬいて燈心を掻き立てている姿の幻のようなものを想い出すと同時にあの燈油の濃厚な匂いを聯想するのが常である。もし自分が今でもこの匂いの実感を持合わさなかったとしたら、江戸時代の文學美術その他のあらゆる江戸文化を正常に認識することは六《むつ》かしいのではないかという気もする。
 石油ランプはまた明治時代の象徴のような気もする。少なくも明治文化の半分はこの照明の下に発達したものであろう。冬の夕まぐれの茶の間の板縁で古新聞を引破ってのホヤ掃除をした経験をもたない現代青年が、明治文学に興味の薄いのは当然かもしれない。ホヤの中にほうっと呼気を吹き込んでおいて棒きれの先に丸めた新聞紙できゅうきゅうと音をさせて拭くのであった。
 その頃では神棚の燈明を点《とも》すのにマッチは汚《けが》れがあるというのでわざわざ燧《ひうち》で火を切り出し、
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