の救済策として日本画の空気を採り入れたのは何故であろう。単に眼先を変えるというような浅薄な理由によるだろうか。自分はそうは思わない。日本画には到底科学などのために動揺させられない、却ってあるいは科学を屈服させるだけの堅固な地盤があると思う。何故かと云えば日本画の成立ち組立て方において非常に科学的でそしてむしろ科学以上なところがあるからである。
 師匠の真似ばかりしていた古来の職工的日本画家は別問題として、何らかの流派を開いた名画家の作品を見ると、たとえそれが品の悪い題材を取扱った浮世絵のようなものであっても、一口に云って差しつかえのないと思う特徴は、複雑な自然人生の中から何らか普遍的な要素を捉《つか》まえていて、そしてそれを表わすに最も簡単明快な方法を選んでいる事である。例えば光琳《こうりん》の草木|花卉《かき》に対するのでも、歌麿《うたまろ》や写楽《しゃらく》の人物に対するのでもそうである。こういう点で自分が特に面白く思うのは古来の支那画家の絵である。尤も多くはただ写真などで見るばかりで本物に接する事は稀であるが、それだけでも自分は非常な興味を感じさせられる。というのは画家各自の選み出した要素がそれぞれ一種の普遍的な事実あるいは方則のようなものであって、しかも相互の間に何らの矛盾もなければ背違もない。あたかも多様な見方の上に組立てた科学的系統が相併立しているような観がある。現今の物質科学ではこういう自由は許されていない。人間性《アンスロポモルフィズム》というものを出来るだけ除外しようという傾向からすればこれは当然な事であるが、芸術ではこの点は勿論ちがう。おのおのの画家はそれぞれの系統を有し、そのおのおのが事実であり真実でありしかも互いに矛盾しないところが面白くまた尊いところであろう。
 筆触や用墨を除いた日本画や南画の根本的の要素は何かという事は六かしい問題であるが、自分はこの要素の材料となるものは前にいったような原始的で同時に科学的な見方と表現法であると思う。しかしそれだけではいまだ野蛮人や子供の絵と異なるところはないが、それと大いに異なるところはこれらの材料から組立てる一種の「|思考の実験《ゲダンケンエキスペリメント》」である。科学者が既知の方則を材料として演繹的《えんえきてき》にこのような実験を行って一つの新しい原理などを構成すると同様に、南画家はまた一種の
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