るものである。君が往々用いる黄と青の配合までもまた後者を聯想《れんそう》せしめる事がある。このような共通点の存在するのは、根本の出発点において共通なところのある事から考えれば何の不思議もない事ではあるまいか。あるいはまた津田君の寡黙な温和な人格の内部に燃えている強烈な情熱の※[#「火+餡のつくり」、第3水準1−87−49]《ほのお》が、前記の後期印象派画家と似通ったところがあるとすれば猶更《なおさら》の事であろう。
 ある批評家はセザンヌの作品とドストエフスキーの文学との肖似《しょうじ》を論じている。自分も偶然に津田君の画とこの露文豪のある作品との間に共軛点《きょうやくてん》を認めさせられている。殊に彼の『イディオット』の主人公の無技巧な人格の美に対して感じるような快感を津田君の画から味わい得られる。そして真率|朴訥《ぼくとつ》という事から出て来る無限の大勢力の前に虚飾や権謀が意気地なく敗亡する事を痛快に感じないではいられない。
 以上の比較は無論ただ津田君の画のある小さい部分について当《あ》て嵌《はま》るものであって、全体について云えば津田君の画は固《もと》より津田君の画である事は申すまでもない。同君のような出発点を有する人の画を論ずるに他人のしかも外国人の画などを引合いに出したくはない。しかし外国人の事と云えば、これを紹介し祖述する事に敏捷《びんしょう》な人々の多い世の中に、津田君の画を紹介しようとする人の少ないのは不思議である。遂に自分のようなものでも差し出口をきかなければならないような事になるのはどういう訳であろう。
 ここまで書いて来て振り返ってみると自分ながら随分臆面もなくよくこれだけ書いたものだと思う。しかし自分として云いたいと思う事はまだなかなか十分の一も尽されていない。一番云いたいと思うような主要な第一義の事柄はこれを云い表わすだけの言葉がなかなか見付からない。それでやっと述べ得た事すらも多くは平凡でなければ不得要領であったり独り合点に終っているかもしれない。
 青楓《せいふう》論と題しながら遂に一種の頌辞《しょうじ》のようなものになってしまった。しかしあらを捜したり皮肉をいうばかりが批評でもあるまい。少しでも不満を感ずるような点があるくらいならば始めからこのような畑違いのものを書く気にはなり得なかったに相違ない。
 津田君の画はまだ要するにXであ
前へ 次へ
全13ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング