直すという事は科学者にとっても甚《はなは》だ重要な事である。科学の進歩の行き止りにならないのは全くそういう態度の賜物である。科学は決して自然をありのままに記載するものではない。自然の顔には教科書の文句は書いてない。自然を如何に見て如何に表現すべきかという事は全く自由ではないがしかも必ずしも絶対に単義的《ユニーク》なものではない。例えば昼夜の交代太陽の運行を観測した時に地球が動いているとするか太陽が動いているとするかはただこれだけの現象の説明をするにはいずれでも差しつかえはない。しかし太陽が地球の周囲を動いているとすると外の遊星の運動を非常に複雑なものと考えなければならず、また重力の方則なども恐ろしく難儀なものになるに相違ない。科学の場合には方則の普遍性とか思考の節約とかいう事が標準となって科学者の自然に対する見方を指導しその価値を定めて行くのである。これに比べて芸術家が自然に対する見方は非常に多様であり得る事は勿論《もちろん》である。科学者はなるたけ自分というものを捨ててかかろうとする。一方で芸術家はもっぱら自己を主張しようとする。而《しか》してその区々《まちまち》な表現の価値を定めるものも科学の場合とは無論一様でない。しかしともかくも芸術家のうちで自然そのものを直接に見て何物かを見出そうという人があれば、その根本の態度や採るべき方法には自《おの》ずから科学者と共通点を見出す事が出来てもよい訳である。
新しい目で自然を見るという事は存外六《むつ》かしい事である。吾人《ごじん》は生れ落ちて以来馴れ切っている周囲に対して、ちゃんと定まった、しかも極《きわ》めて便宜的《コンヴェンショナル》な型や公式ばかりを当《あ》て嵌《は》めている。朝起きて顔を洗う金盥《かなだらい》の置き方から、夜寝る時の寝衣の袖の通し方まで、無意識な定型を繰返している吾人の眼は、如何に或る意味で憐れな融通のきかきぬものであるかという事を知るための、一つの面白い、しかも極めて簡単な実験は、頭を倒《さかさ》にして股間《こかん》から見馴れた平凡な景色を覗《のぞ》いて見る事である。たったそれだけの眼の向け方でも今まで見逃していた自然の美しさが今更《いまさら》のように目に立つのである。写真機のピントガラスに映った自然や、望遠鏡の視野に現われた自然についても、時に意外な発見をして驚くのは何人《なんぴと》にも珍し
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