そういう遣り方が写真として不都合であっても絵画としてはそれほど不都合な事ではないという事が初めから明らかに理解されている証拠である。また下書きなどをしてその上を綺麗《きれい》に塗りつぶす月並なやり方の通弊を脱し得る所以《ゆえん》であるまいか。本当の意味の書家が例えば十の字を書く時に始め一を左から右へ引き通す際に後から来る※[#「十−一」、第3水準1−14−4]の事など考えるだろうか、それを考えれば書の魂は抜けはしまいか。たとえ胴中を枝の貫通した鳥の絵は富豪の床の間の掛物として工合が悪いかもしれぬが、そういう事を無視して絵を画く人が存在するという事実自身が一つの注目すべき啓示《レヴェレーション》ではあるまいか。自分は少し見ているうちにこの種の非科学的な点はもうすっかり馴れてしまって何らの不都合をも感じなくなった。おそらく誰でも同様であろう。ただ在来の月並の不合理や出来合の矛盾にのみ馴れてそれを忘れている眼にほんの一時的の反感を起させるに過ぎないであろう。
 津田君の絵についてこういう新しい見馴れぬ矛盾や不合理を探せばいくらでもある。こういう点の多いという事がまさに君が新しい眼で自然を見つつある事実を証明するのである。在来のいわゆる穏健な異端でない画に対して吾人が不合理を感じないのは、そこに不合理がないという証拠では毛頭ない。ただそこには何らの新しい不合理を示していないというだけである。そしてこれは間接には畢竟《ひっきょう》新しい何物をも包んでいない事を暗示するのである。そうかと思うと一方で立体派や未来派のような舶来の不合理をそのままに鵜呑《うの》みにして有難がって模倣しているような不見識な人の多い中に、このような自分の腹から自然に出た些細《ささい》な不合理はむしろ一服の清涼剤として珍重すべきもののような感がある。
 鳥の脚が変な処にくっついている、樹の上で鳥が力学的平衡を保ち得るかは疑問である。樹の幹や枝の弾性は果してその重量に堪え得るや否や覚束ない。あるいは藁苞《わらづと》のような恰好をした白鳥が湿り気のない水に浮んでいたり、睡蓮《すいれん》の茎ともあろうものが蓮《はす》のように無遠慮に長く水上に聳《そび》えている事もある。時には庇《ひさし》ばかりで屋根のない家に唐人のような漱石先生が居る事もある。このような不思議な現象は津田君のある時期の画中には到る処に見出される
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