に遊びに行って、そこで東京大相撲を見た記憶がある。小錦という大関だか横綱だかの白※[#「析/日」、第3水準1−85−31]《はくせき》の肉体の立派で美しかったことと、朝潮という力士の赤ら顔が妙に気になったことなどが夢のように思い出されるだけである。
 高等学校時代には熊本の白川の川原で東京大相撲を見た。常陸山《ひたちやま》、梅ケ谷、大砲などもいたような気がする。同郷の学生たち一同とともに同郷の力士国見山のためにひそかに力こぶを入れて見物したものである。ひいきということがあって始めて相撲見物の興味が高潮するものだということをこの時に始めて悟ったのであった。夜熊本の町を散歩して旅館|研屋《とぎや》支店の前を通ったとき、ふと玄関をのぞき込むと、帳場の前に国見山が立っていて何かしら番頭と話をしていた。そのときのこの若くて眉目秀麗《びもくしゅうれい》な力士の姿態にどこか女らしくなまめかしいところのあるのを発見して驚いたことであった。

     四

 大学生時代に回向院《えこういん》の相撲を一二度見に行ったようであるがその記憶はもうほとんど消えかかっている。ただ、常陸山、梅ケ谷、大砲、朝潮、逆鉾《さかほこ》とこの五力士のそれぞれの濃厚な独自な個性の対立がいかにも当時の大相撲を多彩なものにしていたことだけは間違いない事実であった。それぞれの特色ある音色をもった楽器の交響楽を思わせるものがあった。皮膚の色までがこの五人それぞれはっきりした特色をもっていたような気がするのである。これとは直接関係のないことであるが、大学などでも明治時代の教授たちには、それぞれに著しくちがったしかもそれぞれに濃厚な特色をもった人が肩を比べていたような気がするが、近ごろではどちらかと言えばだんだん同じような色彩の人ばかりがそろえられるといったような傾向がありはしないかという気がする。これは自分だけのひが目かもしれないが、しかしそうなるべき理由はあると思われる。昔は各藩の流れをくんで多様な地方的色彩を帯びた秀才が選ばれて互いに対立し競争しまた助け合っていた。しかし後にはそうではなくて先任者が順々に後任者を推薦し選定するようになった。従って自然に人員の個性がただ一色に近づいて来るという傾向が生じたのではないかという気がする。どちらがいいか悪いかは別問題であるが、昔の人選法も考えようによってはかえって合理的
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