性原理は、波打ちぎわに子供の築いた砂の城郭のような物ではない。狭く科学と限らず一般文化史上にひときわ目立って見える堅固な石造の一里塚《いちりづか》である。

       五

 相対性原理に対する反対論というものが往々に見受けられる。しかし私の知り得た限りの範囲では、この原理の存在を危うくするほどに有力なものはないように思われる。
 反対論者の反対のおもなる「動機」は、だんだんせんじつめると結局この原理の基礎的な仮定や概念があまりはなはだしく吾人の常識にそむくという一事に帰着するように見える。
 科学と常識との交渉は、これは科学の問題ではなくてむしろ認識論上の問題である。従って科学上の問題に比べてむつかしさの程度が一段上にある。
 しかし少なくも歴史的に見た時に従来の物理的科学ではいわゆる常識なるものは、論理的系統の整合のためには、惜しげなくとは言われないまでも、少なくもやむを得ず犠牲として棄却されあるいは改造されて来た。
 太陽が動かないで地球が運行しているという事、地球が球形で対蹠点《たいせきてん》の住民が逆《さか》さにぶら下がっているという事、こういう事がいかに当時の常識に反していたかは想像するに難くない。
 非ユークリッド幾何学の出発点がいかに常識的におかしく思われても、これを否定すべき論理は見つからない。こういう場合にわれわれのとるべき道は二つある。すなわち常識を捨てるか、論理を捨てるかである。数学者はなんの躊躇《ちゅうちょ》もなく常識を投げ出して論理を取る。物理学者はたとえいやいやながらでもこの例にならわなければならない。
 物理学の対象は客観的実在である。そういうものの存在はもちろん仮定であろうが、それを出発点として成立した物理学の学説は畢竟《ひっきょう》比較的少数の仮定から論理的|演繹《えんえき》によって「観測されうる事象」を「説明」する系統である。この目的が達せられうる程度によって学説の相対的価値が定まる。この目的がかなり立派に達せられて、しかも根本仮定が非常識だという場合に常識を捨てるか学説を捨てるかが問題である。現在あるところの物理学は後者を選んで進んで来た一つの系統である。
 私は常識に重きを置く別種の系統の成立不可能を確実に証明するだけの根拠を持たない。しかしもしそれが成立したと仮定したらどうだろう。それは少なくも今日のいわゆる物理学とは全然別種のものである。そうしてそれが成立したとしても、それが現在物理学の存在を否定する事にはなり得ないと思う。そして最後に二者の優劣を批判するものがあれば、それは科学以外の世界に求めなければならない。

       六

 自然の森羅万象《しんらばんしょう》がただ四個の座標の幾何学にせんじつめられるという事はあまりに堪え難いさびしさであると嘆じる詩人があるかもしれない。しかしこれは明らかに誤解である。相対性理論がどこまで徹底しても、やっぱり花は笑い、鳥は歌う事をやめない。もしこの人と同じように考えるならば、ただ一人の全能の神が宇宙を支配しているという考えもいかにさびしく荒涼なものであろう。
 今のところ私は、すべての世人が科学系統の真美を理解して、そこに人生究極の帰趣を認めなければならないのだと信ずるほどに徹底した科学者になり得ない不幸な懐疑者である。それで時には人並みに花を見て喜び月に対しては歌う。しかしそうしている間にどうかすると突然な不安を感じる。それは花や月その他いっさいの具象世界のあまりに取り止めどころのないたよりなさである。どこをつかまえるようもない泡沫《ほうまつ》の海におぼれんとする時に私の手に触れるものが理学の論理的系統である。絶対的安住の世界が得られないまでも、せめて相対的の確かさを科学の世界に求めたい。
 こういう意味で私は、同じような不安と要求をもっている多くの人に、理学の系統の中でもことにアインシュタインの理論のごときすぐれたものの研究をすすめたい。多くの人は一見乾燥なように見える抽象的系統の中に花鳥風月の美しさとは、少し種類のちがった、もう少し歯ごたえのある美しさを、把握《はあく》しないまでも少なくも瞥見《べっけん》する事ができるだろうと思う。
[#地から3字上げ](大正十一年十二月、改造)



底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2003年10月30日修正
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