ある。しかしそれはいわゆる「揚げ足取り」の態度であって、まじめな学者の態度とは受け取られない。
「完全」でない事をもって学説の創設者を責めるのは、完全でない事をもって人間に生まれた事を人間に責めるに等しい。
 人間を理解し人間を向上させるためには、盲目的に嘆美してはならないし、没分暁に非難してもならないと同様に、一つの学説を理解するためには、その短所を認める事が必要であると同時に、そのためにせっかくの長所を見のがしてはならない。これはあまりに自明的な事であるにかかわらず、最も冷静なるべき科学者自身すら往々にして忘れがちな事である。
 少なくも相対性原理はたとえいかなる不備の点が今後発見され、またたとえいかなる実験的事実がこの説に不利なように見えても、それがために根本的に否定されうべき性質のものではないと私は信じている。

       三

 相対性原理の比較的に深い理解を得るためにはその数学的系統を理解する事はおそらく必要である。しかしそれは必要であるが、それだけではまだ「必要かつ充分な条件」にならない事も明白である。数学だけは理解しても、少なくもアインシュタインの把握《はあく》しているごとくこの原理を「つかむ」事は必ずしも可能でない。
 また一方において、数学の複雑な式の開展を充分に理解しないでしかも、アインシュタインがこの理論を構成する際に歩んで来た思考上の道程を、かなりに誤らずに通覧する事も必ずしも不可能ではないのである。不可能でないのみならずある程度までのある意味での理解はかえってきわめて容易な事かもしれない。少なくもアインシュタイン以前の力学や電気学における基礎的概念の発展沿革の骨子を歴史的に追跡し玩味《がんみ》した後にまず特別相対性理論に耳を傾けるならば、その人の頭がはなはだしく先入中毒にかかっていない限り、この原理の根本仮定の余儀なさあるいはむしろ無理なさをさえ感じないわけには行くまいと思う。ある人はコロンバスの卵を想起するであろう。卵を直立させるには殻《から》を破らなければならない。アインシュタインはそこで余儀なく絶対空間とエーテルの殻を砕いたまでである。
 殻を砕いて新たに立てた根本仮定から出発して、それから推論される結果までの論理的道行きは数学者に信頼すればそれでよい。そして結果として出現した整然たる系統の美しさを多少でも認め味わう事ができて、
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