今紙面の斑点を捜してはその出所を詮索した事に似通《にかよ》っているような気もした。どんな偉大な作家の傑作でも――むしろそういう人の作ほど豊富な文献上の材料が混入しているのは当然な事であった。それを詮索するのは興味もあり有益な事でもあるが、それは作と作家の価値を否定する材料にはならなかった。要は資料がどれだけよくこなされ[#「こなされ」に傍点]ているか、不浄なものがどれだけ洗われているかにあった。
作中の典拠を指摘する事が批評家の知識の範囲を示すために、第三者にとって色々の意味で興味のある場合もかなりにある。該博《がいはく》な批評家の評註は実際文化史思想史の一片として学問的の価値があるが、そうでない場合には批評される作家も、読者も、従って批評者も結局迷惑する場合が多いように思われる。そういう批評家のために一人の作家が色々互いに矛盾したイズムの代表者となって現われたりするのであろう。
美術上の作品についても同様な場合がしばしば起る。例えば文展《ぶんてん》や帝展でもそんな事があったような気がする。それにつけて私は、ラスキンが「剽窃《ひょうせつ》」の問題について論じてあった事を思い出して、
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