では再びそれをたどって見るようはなかった。私はただ漠然と日常の世界に張り渡された因果の網目の限りもない複雑さを思い浮べるに過ぎなかった。
 あらゆる方面から来る材料が一つの釜《かま》で混ぜられ、こなされて、それからまた新しい一つのものが生れるという過程は、人間の精神界の製作品にもそれに類似した過程のある事を聯想させない訳にはゆかなかった。
 そのような聯想から私はふとエマーソンが「シェークスピア論」の冒頭に書いてある言葉を思いだした。「価値のある独創《オリジナリティ》は他人に似ないという事ではない。」「最大の天才は最も負債の多い人である。」こんな意味の言詞が思い出された。
 それからまたある盲目の学者がモンテーニュの研究をするために採った綿密な調査の方法を思い出した。モンテーニュの論文をことごとく点字に写し取った中から、あらゆる思想や、警句や、特徴や、挿話を書き抜き、分類し、整理した後に、さらにこの著者が読んだだろうと思われるあらゆる書物を読んだり読んでもらったりして、その中に見出される典拠や類型を拾い出すというのである。この盲人の根気と熱心に感心すると同時に、その仕事がどことなく私が今紙面の斑点を捜してはその出所を詮索した事に似通《にかよ》っているような気もした。どんな偉大な作家の傑作でも――むしろそういう人の作ほど豊富な文献上の材料が混入しているのは当然な事であった。それを詮索するのは興味もあり有益な事でもあるが、それは作と作家の価値を否定する材料にはならなかった。要は資料がどれだけよくこなされ[#「こなされ」に傍点]ているか、不浄なものがどれだけ洗われているかにあった。
 作中の典拠を指摘する事が批評家の知識の範囲を示すために、第三者にとって色々の意味で興味のある場合もかなりにある。該博《がいはく》な批評家の評註は実際文化史思想史の一片として学問的の価値があるが、そうでない場合には批評される作家も、読者も、従って批評者も結局迷惑する場合が多いように思われる。そういう批評家のために一人の作家が色々互いに矛盾したイズムの代表者となって現われたりするのであろう。
 美術上の作品についても同様な場合がしばしば起る。例えば文展《ぶんてん》や帝展でもそんな事があったような気がする。それにつけて私は、ラスキンが「剽窃《ひょうせつ》」の問題について論じてあった事を思い出して、も一度それを読んでみた。その最後の項にはこんな事が書いてあった。
「一般に剽窃《プラジアリズム》について云々する場合に忘れてならないのは、感覚と情緒を有する限りすべての人は絶えず他人から補助を受けているという事である。人々はその出会うすべての人から教えられ、その途上に落ちているあらゆる物によって富まされる。最大なる人は最もしばしば授けられた人である。そしてすべての人心の所得をその真の源まで追跡する事が出来たら、この世界がいちばん多くの御蔭を蒙っているのは、最も独創力のある人々であった事を発見するだろう。またそういう人々がその生活の日ごとに、人類から彼等が負う負債を増しながら、同時に同胞に贈るべきものを増大して行った事が分るだろう。何かの思想あるいは何かの発明の起源を捜そうとする労力は、太陽の下に新しき物なしというあっけない結論に終るに極《きま》っている。そうかと云って本当に偉大なものが全くの借り物であるという事もありようはない。それで何でも人からくれるものが善いものであれば何もおせっかいな詮議などはしないで単純にそれを貰って、直接くれたその人に御礼を云うのが、通例最も賢い人であり、いつでも最も幸福な人である。」
 この文辞の間にはラスキンの癇癪《かんしゃく》から出た皮肉も交じってはいるが、ともかくもある意味ではやはり思想上の浅草紙の弁護のようにも思われる。
 エマーソンとラスキンの言葉を加えて二で割って、もう一遍これを現在のある過激な思想で割るとどうなるだろう。これは割り切れないかもしれない。もし割り切れたら、その答はどうなるだろう。あらゆる思想上の偉人は結局最も意気地のない人間であったという事にでもなるだろうか。
 魔術師でない限り、何もない真空からたとえ一片の浅草紙でも創造する事は出来そうに思われない。しかし紙の材料をもっと精選し、もっとよくこなし、もういっそうよく洗濯して、純白な平滑な、光沢があって堅実な紙に仕上げる事は出来るはずである。マッチのペーパーや活字の断片がそのままに眼につくうちはまだ改良の余地はある。

 ラスキンをほうり出して、浅草紙をまた膝の上へ置いたまま、うとうとしていた私の耳へ午砲《ごほう》の音が響いて来た。私は飯を食うためにこのような空想を中止しなければならないのであった。
[#地から1字上げ](大正十年一月『東京日日新聞』)



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