って霧を醸《かも》していた。N君からはまた浅間葡萄《あさまぶどう》という高山植物にも紹介された。われわれの「葡萄」に比べると、やはり、きりっと引きしまった美しい姿をしている。強い紫外線と烈しい低温とに鍛練された高山植物にはどれを見ても小気味のよい緊張の姿がある。これに比べると低地の草木にはどこかだらしのない倦怠の顔付が見えるようである。
 帰りに、峰の茶屋で車を下りて眼の上の火山を見上げた。代赭色《たいしゃいろ》を帯びた円い山の背を、白いただ一筋の道が頂上へ向って延びている。その末はいつとなく模糊《もこ》たる雲煙の中に没しているのが誘惑的である。ちょっと見ると一と息で登れそうな気がするが、上り口の立て札には頂上まで五時間を要し途中一滴の水もないと書いてある。誘惑にはうっかり乗れない。
 第一日には頂上までの五分の一だけ登って引返し、第二日目は休息、第三日は五分の二までで引返し、第四日休息、アンド・ソー・オン。そうして第八日第九日目を十分に休養した後に最後の第十日目に一気に頂上まで登る、という、こういうプランで遂行すれば、自分のような足弱でも大丈夫登れるであろう。
 こんなことをいいながら星野の宿へ帰って寝た。ところがその翌日は両方の大腿の筋肉が痛んで階段の上下が困難であった。昨日鬼押出の岩堆《がんたい》に登った時に出来た疲労素の中毒であろう。これでは十日計画の浅間登山プランも更に考慮を要する訳である。
 宿の夜明け方に時鳥《ほととぎす》を聞いた。紛れもないほととぎすである。郷里高知の大高坂城《おおたかさかじょう》の空を鳴いて通るあのほととぎすに相違ない。それからまた、やはり夜明けごろに窓外の池の汀《みぎわ》で板片を叩くような音がする。間もなく同じ音がずっと遠くから聞こえる。水鶏《くいな》ではないかと思う。再び眠りに落ちてうとうとしながら、古い昔に死んだ故郷の人の夢を見た。フロイドの夢判断に拠るまでもなく、これは時鳥や水鶏が呼び出した夢であろう。
 宿の庭の池に鶺鴒《せきれい》が来る。夕方近くなると、どこからともなく次第に集まって来て、池の上を渡す電線に止まるのが十何羽と数えられることがある。ときどき汀の石の上や橋の上に降り立って尻尾を振動させている。不意に飛び立って水面をすれすれに飛びながら何かしら啄《ついば》んでは空中に飛び上がる。水面を掠《かす》めてとぶ時に、あの長い尾の尖端が水面を撫《な》でて波紋を立てて行く。それが一種の水平舵《すいへいだ》のような役目をするように見える。それにしてもこの鳥が地上に下りている時に絶えず尾を振動させるのはどういう意味だか分からない。ああやっている方が、急に飛出すときに身体の釣合をとるために好都合かとも思ってみる。実際電線に止まって落着いている時はほとんど尾を静止させている。それが飛出す前にはまた振動をはじめる。飛んで来て止まった時には最初大きく振れるが急速な減衰振動をして止めてしまう。どうもこの鳥の心の動きが尾の振動に現われるように見えるのである。
「この辺には雀がいない」と子供がいう。なるほどまだ一度も雀の顔を見ない。もしかすると鶺鴒の群がこの辺の縄張を守っていて雀の侵入者を迫害するのではないか。そんな臆説も考えられる。
 池に家鴨《あひる》がただ一羽いる。それが何だか淋しそうである。家鴨は群れている方が家鴨らしく、白鳥は一、二羽の方が白鳥らしい。
 夕方になって池の面が薄い霧のヴェールに蔽われるころになると何かしらほのかな花の匂いが一面に立ちこめる。恰度《ちょうど》月見草が一時に開くころである。咲いた月見草の花を取って嗅いでみてもそんな匂いはしない。あるいはこの花の咲く瞬間に放散する匂いではあるまいか。そんなことを話しながら宿のヴェランダで子供らと、こんな処でなければめったにする機会のないような話をするのである。
 時候は夏でも海抜九百メートル以上にはもう秋が支配している。秋は山から下りて来るという代りに、秋は空中から降りて来るともいわれるであろう。
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(追記) 本文中に峰の茶屋への途中、地表から約一メートルに黒土の薄層があって、その中に枯れた木の根があるので、古い昔の植物の埋没したものではないかという想像を書いておいた。その後同じ場所に行ってよく調べてみると、これらの樹の根には生きているのもある。これで見ると、現在生えている樹木の根が、養分の多いこの黒土層を追うて拡がっているのだということが分かる。それにしてもこの黒土層の由来はやはり前に考えたようなものであろうと思われる。
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[#地から1字上げ](昭和八年十月『週刊朝日』)




底本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店
   1997(平成9)年3月5日発行
入力:Nana ohbe

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