背中の翼がふるえているが、それでも我慢して一生懸命にすましている。そして大きなかわいい目をして私の顔を珍しそうに見ていました。そのうち老僧《ファーター》が出て来て挨拶《あいさつ》を始めました。あまり立派でない外套《がいとう》を着たままで、めがねの上から子供とお客とを等分に見ながら、鼻へ掛かった声でだいぶ長く述べ立てました。ワイナハトの起原などから話しましたが、子供の咳《せき》は絶え間なしで騒々しく、咳の出ない子はだいぶ退屈しているようでした。きょう子供の贈物《ゲシェンク》にする人形の着物をほとんど一手で縫うたシュエスター何某が、病気で欠席されたのは遺憾でありますというような挨拶《あいさつ》もありました。この挨拶が済むと、監督の尼さんが音頭をとって、子供の唱歌が始まり、それから正面の壇へ大きい子供がかわるがわる出て暗唱をすると、尼さんが心配して下から小さい声でいっしょに暗唱するのでした。それからワイナハトマンが袋をかついで出て来ておどけて笑わせて、それで式が済みお客さんはみんな別室へはいって、ここへ陳列した子供への贈物を一覧するわけでした。なるほどこれは子供が喜ぶことだろうと思いました。式が済むと、室《へや》の外にいた貧民が一時に押し込んで施与を受けようとするので、なかなかの大混雑で、やっとの事で出て来ました。
 降誕祭前一週間ほど、市役所前の広場に歳《とし》の市《いち》が立って、安物のおもちゃや駄菓子《だがし》などの露店が並びましたが、いつ行って見ても不景気でお客さんはあまり無いようでした。売り手のじいさんやばあさんも長い煙管《きせる》を吹かしたり編み物をしているのでありました。ひやかしていると、「ドクトルの旦那《だんな》さん、降誕祭贈物《ワイナハトゲシェンク》はいかがです」と呼びかけるのもありました。町の店屋へ買い物に行くと、お前さんの故国でもワイナハトを祝うかなぞときくのがだいぶありました。
 降誕祭《ワイナハト》の初めの日には、主婦《かみ》さんが、タンネンバウムを飾るから手伝ってくれぬかと言うので、お手伝いしました。たいそう古くなったお菓子を黄色いリボンで縛ったのが一箱あって、これもつるすのだといって、樅《もみ》の木へほかの飾り物といっしょにつるしました。これは十四年前におばあさんが買ったお菓子だということでした。同じ宿にいる女優のスタルク嬢も、前だれなどかけて三階から降りて来て手伝いました。いちばん高い枝につるすには梯子《はしご》が入用でした。あぶないと言ったがきかないで、スタルク嬢がつるしました。その夜の十一時の汽車で主婦《かみ》さんのむすこが帰って来るということでした。このむすこも娘も主婦さんの継子《ままこ》だそうです。むすこはエーベルフェルドの電気工場に勤めているそうで、それがワイナハトには久しぶりで帰るというので、この間じゅうから妹娘が贈物《ゲシェンク》する襟飾《えりかざり》を編んでいました。とうとうできあがらないとこぼしていました。都合で夕食後にバウムに灯《ひ》をつけました。きれいでした。室《へや》の片側へ机を並べて、皆一同の贈物が陳列してありました。二人の下女もそれぞれ反物をもらって喜んでいました。親子が贈物を取りかわし「ムッター」「ヘレーネ」とお互いに接吻《せっぷん》するのはちょっと不思議に思われました。主婦がピアノの前にすわって、みんなでワイナハトの歌をうたいました。雪のふるのがほんとうだそうですが、この晩は暴風雨のような雨が降ってひどい天気でした。記念にバウムの写真をとりたいと思って、町へマグネシウムを買いに出ましたら、町の家々の窓にもワイナハトバウムの光が映って、ところどころ音楽も聞こえて愉快そうに見えました。十一時過ぎにむすこが帰って来ましたが、私はもう室《へや》へ帰って床の中で新聞を見ていましたから、その夜は会いませんでした。夜ふけるまで隣の室で低い話し声が聞こえていました。むすこはそれから三日目の晩食後に帰って行きましたが、その晩食の席で主婦がサンドウィッチをこしらえて新聞に包んでやりました。汽車の着くのは夜半だからといって、いちばん厚いパンの切れを選《よ》っていました。食事が済んで汽車の出るまでだいぶ間があるので、むすこはピアノの前へすわってワイナハトの歌などひいていました。主婦《かみ》さんとむすこは始終いろいろ話しておりましたが、兄妹の間にはいっこうなんの話もありませんでした。それでもネクタイはやっとできあがったそうでした。
 ゆうべはジルヴェスターアーベンドというので、またバウムに蝋燭《ろうそく》をともしました。そして食後にあたたかいプンシュを飲んで、お菓子をかじりました。食堂の棚《たな》に飾ってある葡萄《ぶどう》が毎日少しずつなくなるのは不思議だという話が出ました。きょうはたった四つになったといってわざわざ見せてくれました。ある主婦が盗み食いをする下女を懲らすためにお菓子の中へ吐剤を入れておいた話も聞きました。スタルク嬢は下稽古《したげいこ》でおそくなってやって来ました。この人はいつでも忙しい忙しいといっています。田舎芝居《いなかしばい》で毎日変わった物を演ずるので、下読みが忙しいそうです。ある日、いつも外出する時間に出ないで室《へや》にいましたら、隣の食堂で下読みが始まってちょっと驚きました。あとで聞いたらレッシングの「ミンナ・フォン・バルンヘルム」とかであったそうです。
 この大晦日《おおみそか》の晩十二時に日本へ送る年賀状を出しに出ました。町の辻《つじ》で子供が二三人雪を往来の人に投げつけていました。市役所のへんまで行くと暗やみの広場に人がおおぜいよっていて、町の家の二階三階からは寒いのに窓をあけて下をのぞいている人々の顔が見える。市役所の時計が十二時を打つと同時に隣のヨハン会堂《キルヘ》の鐘が鳴り出す。群集が一度にプロージット・ノイヤール、プロージット・ノイヤールと叫ぶ。爆竹に火をつけて群集の中へ投げ出す。赤や青の火の玉を投げ上げる。遅れて来る人々もあちこちの横町からプロージット・ノイヤールと口々に叫ぶ。町の雪は半分|泥《どろ》のようになった上を爪立《つまだ》って走る女もあれば、五六人隊を組んで歌って通る若者もある。巡査もにこにこして、時々プロージットの返答をしている。学生が郵便配達をつかまえて、ビールの息とシガーの煙を吹きかけながら、ことしもまたうんと書留を持って来てくれよなどと言って困らせている。ふざけて抱き合う拍子にくわえたシガーが泥《どろ》の上へ落ちたのを拾ってはまた吸っています。プラッツのすみのほうに銅壺《どうこ》をすえてプンシュを売っている男もありました。寺の鐘は十五分ほど鳴っていました。帰って来る途中のさびしい町でもところどころ窓から外を見ている人がありました。帰って寝ようと思ったら窓の下でだれかプロージット・ノイヤールと大きな声がして、向こうの家からプロージットプロージットとそれに答えているのが聞こえました。
 書いている間に日が暮れました。いっこう元日らしいところはありません。きょうから隣の空室へ判事試補マイヤー君が宿をとりました。法科のベルナー君や理科のデフレッガア君などは目下郷里へ帰ってたいへん静かであります。
 長々と書いたもののいっこうつまらなくなりました。
[#地から3字上げ](明治四十四年二月、東京朝日新聞)

     パリから(一)

 私の宿はオペラの近くでちょっと引っ込んだ裏町にあります。二三町出るとブールバール・デジタリアンの大通りです。たいてい毎朝ここへ出て角《かど》で新聞を買います。初めてノートルダームに行った日はここから乗合馬車に乗ってまずバスチールの辻《つじ》まで行きました。音に聞いた囚獄は跡方もありません。七月の碑という高い記念碑がそびえているばかりです。頂上には自由の神様が引きちぎった鎖と松明《たいまつ》を持って立っています。恐ろしい風の強い日で空にはちぎれた雲が飛んでいるので、仰いで見ているとこの神像が空を駆けるように見えました。辻の広場には塵《ちり》や紙切れが渦巻《うずま》いていました。
 広場に向かって Au canon という料理屋があって、軒の上に大砲の看板が載せてあります。ここからまた馬車の二階に乗ってオテルドヴィーユまで行きました。通りの片側には八百屋物《やおやもの》を載せた小車が並んでいます。売り子は多くばあさんで黒い頬冠《ほおかぶ》り黒い肩掛けをしています。市庁の前で馬車を降りてノートルダームまで渦巻《うずまき》の風の中を泳いで行きました。どこでも名高いお寺といえばみんな一ぺん煤《すす》でいぶしていぶし上げてそれからざっとささらで洗い流したような感じがしますが、このお寺もそうです。ほかの名高い伽藍《がらん》にくらべて別に立派なとも思いませんが両側に相対してそびえた鐘楼がちょっと変わった感じを与えます。入り口をはいるとここに限らず一時まっ暗になる。足もとから不意に鋭い声でプール・レ・ポーヴルと呼びかける。まっ白い大きな頭巾《ずきん》を着た尼さんが袋をさし出している。袋の底から銀貨が光っていました。はいって来る信徒らは皆入り口の壁や柱にある手水鉢《ちょうずばち》に指の先をちょっと入れて、額へ持って行って胸へおろしてそれから左の乳から右の乳へ十字をかく。堂のわきのマドンナやクリストのお像にはお蝋燭《ろうそく》がともって二三人ずつその前にひざまずいて祈っている。蝋燭を売るばあさんがじろじろと私を見る。堂のまん中へ立って高い色ガラスの窓から照らす日光を仰いで見るのはやはりよい心持ちがします。午後でしたからお勤めはありません。しかし時々オルガンの低いうなりが響いたり消えたりしていました。右側の回廊の柱の下にマドンナの立像があってその下にところどころ活版ずりの祈祷《きとう》の文句が額になってかけてあります。この祈祷をここですれば大僧正から百日間のアンジュルジャンスを与えるとある。「年ふるみ像のみ前にひれふしノートルダームのみ名によりて祈りまつる、わが神のみ母よ……」というような文句であります。数世紀の間パリの喜び悲しみをわれらの祖先がここにこの像の前に喜び悲しんだというような文句がある。若い女が黒い紗《しゃ》で顔をかくして手に長い蝋燭《ろうそく》を持って像の前に立った。そして欄にもたれてひざまずいてじっとしている。美しい肩が時々波を打って、帽子の黒い鳥の羽がふるえるように見えました。マドンナのすぐわきにジャンダークの石膏像《せっこうぞう》がある。この像の仕上げのために喜捨を募るという張り札がしてある。回廊の引っ込んだ所には、僧侶《そうりょ》が懺悔《ざんげ》をきく所がいくつもある。一昨年始めてイタリアのお寺でこの懺悔をしているところを見ていやな感じがしてから、この仕掛けを見るごとに僧侶を憎み信徒をかわいく思います。奥の廊下の扉《とびら》のわきに「宝蔵見物のかたはここで番人をお待ちくだされたし」という張り札がしてある。その前で坊さんが二人立ち話をしている。
 門を出ると外はからっ風が吹きあれていました。堂の前を右へ回ると塔へ上る階段がある。
 薄暗い螺旋形《らせんけい》の狭い階段を上って行く。壁には一面のらく書きがしてある。たいてい見物人の名前らしい。登りつめて中段の回廊へ出る。少し霧がかかってはいるが、サンデニからボアのほうまでも見渡される。鐘楼の下の扉《とびら》が開いて女が顔を出した。そして塔へ上りますかといって塔の入り口の扉を開く。
「おりて来たらここをたたいてください」といって、ドンドン扉をたたいて見せて、私を塔の中へ閉じこめてしまった。まっ暗な階段を手探りながら登って行って頂上に出る。ひどい風で帽子は着ていられぬ。帽子を脱ぐと髪の毛を吹き乱す。やっとベデカの図を開いてパリじゅうを見おろす。塔の頂の洗いさらされた石材には貝がらの化石が一面についている。寺の歴史やパリの歴史もおもしろいが、この太古の貝がらの歴史も私にはおもしろい。屋根のトタンにも石にも一面に名前や日付が刻みつけてあります。塔をおりて扉《
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