とびら》をドンドンたたく。しばらく待ってもあけてくれぬ。またドンドン靴《くつ》でける。しばらく待っているとやっとあけてくれた。入れちがいにまた一人塔へ上る人があって、これにも同じ事をいって外から錠をおろす。「セバストポールの鐘をごらんなさい」と先に立って、反対の側の鐘楼へ導く。黒の頬冠《ほおかぶ》り、黒の肩掛けで、後ろの裳《も》はぼろぼろにきれかかっている。欄干から恐ろしい怪物の形がいくつもパリを見おろしている。
「この怪物をごらんなさい。Penseur. 年じゅうこうやって頬杖《ほおづえ》をついたまま考えています」という。また鐘楼へもどってはいる。左側にあるのがクリミヤから持ってきたいわゆるセバストポールの鐘、右側のがここのブールドン目方が幾キログラムある、中にさがった舌がいくらいくらと説明する。鐘をゆり動かす仕掛けを見せてくれる。そばにあった鉄の棒でガンガンと軽く鳴らして見せました。特別の祭日でなくてはこの鐘はほんとうには撞《つ》かぬそうです。ユーゴーの小説の種にしたギリシア文字のらく書きはほんとうにあるかときいてみましたら、「今はもうありません。あなたもカジモドの話を御存じですね」といって、青い顔をして笑いました。
もとの入り口の所へ帰ると、さきに塔へ上った男がまた私と同様に内からドンドンたたいている。御免なさいといってあけてやってまた鐘を見せに連れて行きました。
また次に御報いたします。きょうはカルネバルの Mardi−gras ですからにぎわうことだろうと思います。
[#地から3字上げ](明治四十四年三月、東京朝日新聞)
パリから(二)
このあいだここのユーゴー博物館というのを見ました。ユーゴーの住まっていた家で遺物など陳列して公衆に見せているのです。ユーゴーの描いた絵がたくさんあってなかなかうまいものだと感心しました。この人の作物中の光景を描いたいろんな画家の絵もあります。「ミゼラブル」の中でファンティーヌが往来で乱暴な男に肩へ雪の塊《かたまり》をおっつけられるところもあります。これはユーゴーが実際に見た出来事だそうです。案内者が萌黄色《もえぎいろ》の背広を着た英国人らしいのに説明していました。萌黄の背広に萌黄の柔らかい帽子を着たこういう男にたいていな所で出くわすのは不思議なくらいです。ノルウェーの船でもこんな男に会ったし、ヴェスーヴの火山でも会いました。いずれも巻き舌のような調子で「ウェル」とかなんとか言っているのです。階段の壁に額を掛けた印刷物の前に背の低い肩の怒った男が三人立って大きな声で読んでは何かしゃべっている。これははたしてドイツ人でした。細かい活版を一々読んでいるところがどうしてもドイツ人らしいと思いました。いろんなおもしろいものもありましたが急いで見たのでなんだかまとまった記憶がありません。暇があったらも一度行って見たいと思っています。
きょう(三月二十三日)はミカレームの祭日だそうです。パリじゅうのせんたく女の中でいちばん美しいのを女皇に選挙して盛んな行列をやるというのでしたから、昼過ぎに近所の大通りまで出て見ました。人道のそばには至るところコンフェッチを包んだ紙袋を売っています、仮面や紙の塵払《ちりはら》いや鶏の鳴き声をする笛などを売っている。息を吹き込むとヒョロヒョロと象の鼻のように伸びるおもちゃも売っている。町はたいそうな人出で巡査がおおぜい出て警戒しています。天気がよくて暖かくてなんだか東京の花見時分の心持ちでした。高い家の窓から皆往来を見物している。派手な女帽子が目に立つ。窓から時々コンフェッチを投げるのがちょうど桜の散るような心持ちがします。時々長い紙ひもを投げる者もある。いろんな仮装をした群れも通る。子供が多い。そのうち行列の前駆に騎兵が来ました。ピカピカ光る兜《かぶと》に黒い髪の毛をたらしている、キュイラシェと言うのだそうです。そのあとから楽隊が来る。止まったきりになっている電車の屋根の上はいっぱいの人でそこからも盛んにコンフェッチを投げる。楽隊のあとから奇妙な山車《だし》が来る。大きな亀《かめ》の頭に煙突が立って背に鉄道の役人の人形が載っている。これが左右にグラグラ揺れ動きながらやって来る。これは国有の西部鉄道の悪口だそうです。それからだんだんに各区の女皇の車が来る。女皇たちは皆にこにこして道の両側にキッスを投げかけている。ワアワアと見物人がはやす。日光が強いので暑そうに顔をしかめているのもある。いろいろの商業団体の旗も来る。それから古代の騎士の風《ふう》をした行列が続く。絵画、音楽、詩などを代表した花車も来る。赤十字の旗を立てた救護隊も交じっている。ずっとあとから「女皇中の女皇」マドムアゼルなにがしと言うのが花車の最高段の玉座に冠をいただいてすわっている。
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